子どもは別人格、親の価値観を押しつけてはいけない
私は120%の情熱をかけて仕事と子育てをしてきました。
とはいえ子育てのほうは、一人娘の浩美はほぼ“鍵っ子”状態で、はたから見たら「ほったらかし」のように見えたかもしれません。それでもグレることもなく、自立したとてもよい子に育ってくれました。
昔、娘が大人になったとき、「よくグレなかったわね」と聞いたことがあります。そうしたら「グレるのはいつでもできると思ったから」という答えが返ってきました。
仕事で家を空ける時間が長い私は、娘が小さい頃はせめて朝、学校に行くのを見送りました。姿が見えなくなったら、大急ぎで自分の身支度を行う日々です。そして夜は短い時間でも、娘の話を聞くようにしていました。
※子育ての奮闘記は第8回参照。
娘が学生の頃は、よく我が家に友達が集まっていました。時には私が思春期の子どもたちの相談役になったこともあります。
こうして娘は真っすぐに育ち、大学に進学することになりました。そして「20歳までは何でもサポートしてあげるわよ。何かしたいことはある?」と聞いたところ、「アメリカに留学したい」という要望がありました。
「何でもサポートしてあげる」と言った約束通り留学を許し、娘は日本の大学を3年で休学してアメリカに向かいました。
そして、留学中、同じアメリカの大学で知り合ったブラジル人と結婚することになりました。
夫は「地球の裏側に嫁に出すなんて」と最初は反対していました。でも「ブラジルに嫁ぐのも、日本のどこかに行くのも一緒よ!」といった私の説得もあり、口では反対だと言いつつ、ちゃっかりテーラーで挙式用のスーツをあつらえているのを、私は知っていました(笑)。
子どもは別人格です。子どもには子どもの違う人生があるのです。
子どもにはよく「こうした人生を歩んでほしい」「こんな大学に行ってほしい」「こんな職業についてほしい」など、自分の思いや価値観を託してしまいがちです。それが、子どもには大きな負担になることがあります。
家族への「思いやり」と「思い込み」は違います。
そして、私たちは娘を快く送り出すことにしました。
挙式のためにブラジルを訪れた私たちも大歓迎されて、とてもよい時間を過ごすことができました。そのときの滞在がよほど楽しかったようで、夫は晩年の病床で「ブラジルの夢を見た」とうれしそうに話していました。
娘が嫁いだ先は会社経営をしている資産家で、何不自由のない生活をしていました。ところがひとつだけ難点があり、治安が悪い国のため、日本のようにどこへでも一人で出かけられる状況ではありませんでした。そのことが徐々に息苦しさへと変わったようです。
そして娘は夫とともに日本に戻り、23歳で男の子を産み、その妊娠中に休学中だった日本の大学も卒業しました。娘の夫は家業を継ぐためにブラジルに戻らざるを得なくなりましたが、娘はブラジルに戻ることはありませんでした。
娘と私は親子という親友です
こうして娘は日本で、一人で子育てをすることになったのです。最初は輸入業、翻訳や企業の通訳などの仕事をしていたのですが、その後、私とともに「美・ファイン研究所」を設立。娘も美容の世界に入ってきました。
その頃、私と夫は籍をそのままに別居をしていたので、娘と孫息子との3人生活が始まりました。私にとっては初めての男の子。忙しいながらも、驚きや楽しみに満ちた日々でした。育児に参加できたことに、とても感謝しています。
「思い切ってブラジルに嫁に出したら、孫を連れて帰って来た!」と、よく友達に笑いながら話したものです(笑)。
娘とブラジル人の元夫は決して仲が悪いわけではなく、子どもの成長を報告するなど交流を続け、今でも親友として家族ぐるみでお付き合いをしています。
私が80歳になったときに、娘と孫息子とともにブラジルに行ったことがあります。娘の元夫に27歳になった子どもを会わせようという試みです。この際も先方の一族の方たちを交えて、とても楽しい時間を過ごしました。下の写真はそのときの家族写真です。
ちなみに孫息子は私のことを「ゴスちゃん」と呼びます。
ポルトガル語に「ゴストーゾ/ザ」という言葉があります。「おいしい」とか「気持ちがいい」「魅力的だ」といった意味なのですが、私が娘の婚約式と結婚式でブラジルに滞在中、皆がよく使っていたので覚えてしまった数少ないポルトガル語でした。それで孫息子に私のことを「おばあちゃん」と呼ばせずに、代わりにゴストーザと呼ばせたのです。
娘の元夫は、成長した我が子をできることならブラジルに呼び寄せたいと思っていたようです。しかし、本人は大好きな日本を選びました。その子は現在も日本にいて、結婚して子どもが生まれています。娘にとっては孫、私にとってはひ孫にあたります。
今は娘と二人で暮らしていますが、私と娘は「親子という親友」です。干渉することなく、それぞれに自分の人生を生きています。
私は常に「10年先を見据えて行動する」ことを信念とし、実践してきました。私の10年後…実はそんなことを考えて、最近行動を起こしたことがあります。
それは次回にお話しします。
【お話しいただいた方】
1935年2月24日生まれ。コーセーで長年美容を研究し、1985年初の女性取締役に就任。56歳で起業し「美・ファイン研究所」、59歳で「フロムハンド小林照子メイクアップアカデミー(現フロムハンドメイクアップアカデミー)」を設立。75歳で高校卒業資格と美容の専門技術・知識を習得できる「青山ビューティ学院高等部」を設立し、美のプロフェッショナルの育成に注力する。84歳で設立した女性リーダーを育てる「アマテラスアカデミア」を自らの使命とし、現在はふたつの会社の経営に携わっている。著書に『これはしない、あれはする』(サンマーク出版)、『なりたいようになりなさい』(日本実業出版社)など多数。
イラスト/killdisco 取材・文/山村浩子