変化は受け入れて楽しむべし!
私が3歳のときに両親が離婚し、まもなく後妻となる春治(はるじ)がやってきました。私は最初は母に引き取られましたが、ふたつ上の兄を慕っていたため1年後に父のもとに戻りました。
実家は祖父母が建てた日本家屋で、武蔵野の面影が残る練馬区小竹町。南側の庭には太陽光が降り注ぎ、柿や栗、ぐみなどの実がなる木や、白い大きな花をつける木蓮などがありました。ここが私と兄の遊び場でした。
兄はよく学校でガキ大将に泣かされていました。そんなときは私が「お兄ちゃんを泣かしたのは誰?」とかばいに入ったものです。
私は体が大きくいつも元気だったので、年下にもかかわらず、兄を守らなければと思っていました。泣き虫の兄と違って、とにかく強くて泣かない子だったので、学校では「小川の妹」として恐れられていました。
父は再婚してまもなく体を悪くし、入退院を繰り返すようになりました。そんなときに兄との思い出があります。
その頃よく、祖母や継母が作った煮物などのおかずを病院にいる父に届けることがありました。ある日、兄と二人でその任務を遂行すべく病院に向かったのですが、当時はおやつなども十分にない時代です。あろうことか、その煮物を途中で二人で食べてしまったのです。
気が弱く正直者の兄は噓がつけず、何かあるとすぐに顔に出るタイプ。この二人の悪事も隠しきれずにすぐ白状してしまったのですが、私はしらを切り通しました(笑)。
最終的にはすべてバレて、しこたま怒られたのですが、生真面目な兄と要領のいい私の性格の違いがよくわかるエピソードです。
そして、私が5歳、小学1年生になる寸前の2月に父が他界しました。
父が元気な頃は抱っこしてくれたり、講談を一緒に聴きに行ったり、入院中も体調がいいときには私の日常の話などを優しく聞いてくれました。
めったに泣かない子どもでしたが、父の葬儀のときは二度大泣きしたことを覚えています。一度目は父の遺体の鼻に綿が詰めてある様子がとても怖かったとき。そして二度目はデコラティブな屋根がついた霊柩車を見たときです。車が人の顔に見えたのが怖かったのです。今でもトラックのような車はフロントが顔に見えて苦手です(笑)。
泣きじゃくる私を見て、大人たちは「照子ちゃんは本当にお父さんを慕っていたのね」と解釈したようですが、実は初めて見る、そのふたつの物が怖かっただけなのです。ちょっと薄情にも思えますが、そんな子どもでした(笑)。
父が亡くなる前から大人たちの間では、私を継母・春治の兄夫婦である花形家の養女にする話が進んでいました。昭和のこの時代、子どものいない親戚の養子になることは珍しくなかったのです。
子どものいない伯父夫婦は私をかわいがってくれていましたし、私も二人が遊びに来ると、帰るときには「帰らないで~」とぐずるほどなついていたので、父が他界すると話はすんなりと進みました。
目まぐるしく変わる環境のなか、父を亡くしたことや慕っていた兄と別れるのは悲しかったのですが、大人の事情を察知して意外と冷静に、次の違う環境に行くのが楽しみでした。
この後、戦況が悪化して一家は山形に疎開するなど、私は生涯で27回引っ越しをしています。私はどうもこうした変化をワクワクと楽しむ素養があるようです。
先を読む力とフレキシブルな行動力を身につけなさい
そうして私は小学2年生の新学期に、小竹町から池袋にある小学校に編入。1942年(昭和17年)の春に小川照子から花形照子になりました。
新しい父・花形嘉蔵(かぞう)は私をとてもかわいがってくれました。持っていった私の筆箱やランドセルなどの名前を上からなぞって、「ほら、こうやれば小川が花形と読めるだろう」と、うれしそうに名前を上手に書き換えてくれたことを覚えています。
時々肩車なんかもしてくれたのですが、花形の父は当時48歳。人からは祖父と孫に見えたようで、よく「おじいちゃんといいわね~」と言われたものです。
そんな花形の父は、山梨出身で大学を出てから製薬会社に勤め、後に中国に渡るなど行動力のある才気あふれる人でした。戦前は家具メーカーを経営していましたが、1941年に戦争が始まると、家具を作るノウハウを生かして、縄ばしごや火叩き、火災や落下物から頭を守るのに優れた、フェルトを使った防空頭巾を発明したり、防空資材を作って売る会社に転向。自宅は池袋、工場は神田、店舗を日本橋に設けていました。
時代の先を読む能力に優れており、その試みは大当たりして大儲けし、財を築きました。私によく「世の中は勘と行動力が必要だ。時代は変わる、先を読む目を持ちなさい。波に乗るだけでなく、波を作る人になりなさい」と話していました。
新しい母・八重子は花形の父よりも10歳以上年下で、子どもがそのまま大人になったような人でした。家庭の事情で学校にあまり行っていなかったこともあり、私が小学校で教わってくる宇宙や地球の話に目を見開いて、「そうなの~?」と言いながら一々、感激していました。
一方で父が私を溺愛する様子を見てやきもちを焼き、時々ヒステリーを起こすこともありました。本当に無邪気で友達みたいな母でした。
私は合計5人の父母に育てられましたが、みんなバラバラの個性と価値観を持っていました。その中で少なからず、それぞれの気質を受け継いだと思います。
例えば、生みの母・トシコからは人を思いやる心を。継母の春治は毎日、髪を結い上げて、家にいるときもお化粧をして凛とした佇まいの女性だったので、そんな女の身だしなみのようなことは彼女から教わりました。天真爛漫な部分は3人目の母・八重子の影響があったかもしれませんね。
私は最近、一般社団法人「アマテラスアカデミア」という女性リーダーを育成する私塾を主宰して、「美容的な生き方」を提案しています。「美容的な生き方」とは自分を愛し、人に優しく生きることです。
受講生の個性を見ていると、人には社長(先頭に立つ)タイプ、幹部(二番手、三番手で人をサポートする)タイプ、自分一人で突き進む一匹狼タイプなど、さまざまな資質の人がいます。
みんな違うから面白く、世の中がうまく回っていくのです。よく人と比べて自分は劣っていると思う人がいますが、それはまったく意味のないことです。もともと、みんな違うのです。
目まぐるしく変わる環境のなかでさまざまな個性の大人に囲まれて、人間の強さももろさも、かわいらしさも醜さも、みんな見てきました。私はどんなときもニコニコと明るくふるまっていましたが、人を観察して個性を引き出し認める眼力は、こうした幼少期に培ったのかもしれません。
【お話しいただいた方】
1935年2月24日生まれ。コーセーで長年美容を研究し、1985年初の女性取締役に就任。56歳で起業し「美・ファイン研究所」、59歳で「フロムハンド小林照子メイクアップアカデミー(現フロムハンドメイクアップアカデミー)」を設立。75歳で高校卒業資格と美容の専門技術・知識を習得できる「青山ビューティ学院高等部」を設立し、美のプロフェッショナルの育成に注力する。84歳で設立した女性リーダーを育てる「アマテラスアカデミア」を自らの使命とし、現在はふたつの会社の経営に携わっている。著書に『これはしない、あれはする』(サンマーク出版)、『なりたいようになりなさい』(日本実業出版社)など多数。
イラスト/killdisco 取材・文/山村浩子