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食を粗末にする人は自分も他人も大切にできない(89歳・小林照子さん)

5歳で実父が他界したのを機に、継母の兄夫婦の養子に。そしてまもなく太平洋戦争が始まり、親子で山形に疎開します。こうして小林照子さんの波乱万丈の人生の舞台は山形へと移ります。ここでも人生の教訓を得る多くの出来事が起こります。

今あるものが永久に続くことはない

1941年の春、私が6歳のときに継母の兄夫婦・花形家の養女になり、小川照子から花形照子になりました。

 

その年の12月に太平洋戦争(第二次世界大戦)が始まりました。新しい父はそれまでは家具メーカーを経営していましたが、戦争が始まると、防空資材を作って売る会社に転向。戦時中に大儲けをして財を蓄えていました。

 

戦争は長引き、やがて本土への空襲が始まり、東京にもアメリカの戦闘機や爆撃機が襲来するようになります。その戦火を逃れるために、1945年(昭和20年)2月に私と養母・八重子の二人は、養母の生まれ故郷である山形県の庄内に疎開しました。

 

翌月の3月に東京大空襲があり、下町は火の海と化して多くの人が亡くなります。私たちは危機一髪、難を逃れて命拾いをしたのです。

 

山形へ向かう列車の中は、網棚にも人がいるほどの超満員。飲まず食わず、トイレにも行けない状態で十数時間、息を潜めて身動きできずにいました。

私は東京を出たときはしゃれた革靴を履いていましたが、列車を降りたときは一面の雪景色。大好きな靴でしたが、歩きにくいといったらありません。東京とは違う新しい生活の始まりでした。

 

空襲で父の店は全焼。その片づけをした後、父が山形に来たのは、その年の8月の終戦後でした。防空資材で儲けたお金を銀行にたっぷり預けていましたが、日本の貨幣価値は変わり、戦前のお札はタダ同然の紙切れに。疎開のときに鉄道便で送った荷物は、途中で多くを盗まれ、届いたのは1/3程度でした。

 

世の中はこうやって変わっていくものだ。今あるものが永遠に続くと思ってはいけないよ」と言った父の言葉が心に沁みました。

 

父の自らの教訓でしたが、戦後の山形での父は東京にいるときの英気あふれる姿ではありませんでした。実業家であったプライドがじゃまをしてか、農業などの肉体労働をする気はなく、働かずに釣りをしたり、地元の有力者と碁を打ったりして過ごしていました。

 

一家は手元に残ったわずかなお金と、着物や帯などを食料と物々交換するなどして、細々とした暮らしを余儀なくされました。最初は町長の家の隣にある立派な一軒家に住んでいましたが、だんだん家賃の安い家に引っ越さなければなりませんでした。

 

食を粗末にすると必ず自分に返ってくる

けれど、すぐに山形での生活にも慣れていきました。

 

私は近所の農家の手伝いをするのが大好きでした。この地域では、農繁期には子どもも含めて家族や親族総出、猫の手も借りたいほどの忙しさです。地元の子は農作業が大嫌いでブツブツ言っていましたが、私は率先して手伝いを買って出ました。

 

種をまいて、それが芽を出して、育っていく過程が面白くてしょうがなかったのです。春には山菜を、秋にはきのこ狩りに山へ行くのも楽しかった。収穫期には野菜のおすそ分けがあり、山から採取したものが食べられるのです。こんなうれしいことはありません。

 

東京では体験できないこうした田舎の暮らしに夢中になり、学校の帰りや休みの日には農家に顔を出しては、草刈りから、田植え、稲刈りまでなんでも手伝いました。その頃は本気で将来は農家になりたいと思っていたほどです(笑)。

 

また、こんなこともありました。

 

私には雛から育てていた雄鶏がいて、貫太郎と名づけてかわいがっていました。貫太郎は頭のいい鶏で、私を見かけると植木の陰に隠れて、陰からこっちをひょっこりと覗いていました。そして、私がそれに気づかないふりをして近くを通り過ぎると、わっと出てきて私を驚かすのです。とてもお茶目で、私になついていました。

 

しかしある日、学校から帰ると貫太郎がいません。庭を探すと、その体は柿の木に吊るされていました。東京から来るお客さんにごちそうをふるまうために、絞められたのです。

 

私はショックで立ち尽くしましたが、父母を責めることはしませんでした。実の父母だったらわめき散らしていたかもしれませんが、子ども心に感情をグッと押し殺したのです。

それ以来、私は今でも鶏肉だけは食べません。10歳のときの誓いを今も守っているのです。

小林照子 4回 食事イラスト

 

当時は戦後の混乱で、人々の食事はみんな質素でした。ご飯と漬け物、それに味噌汁があれば十分。ご飯と味噌汁を食べたら、ご飯茶碗にお湯をそそぎ、漬け物でご飯茶碗と汁椀もきれいにして、漬け物をいただきお湯を飲み干します。こうすれば食器を洗う必要もない、無駄のない合理的な方法です。

 

これでお腹いっぱいになっていたわけではないと思いますが、いつも腹ペコでひもじかったという記憶もありません。

 

飽食の時代といわれて久しい現代。もちろん私もおいしいレストランで家族や友人と食事をするのが大好きです。でも、このときの経験から、食は動物や植物の命をいただいているという気持ちを常に持っていて、食事をする前に必ず「いただきます」と心をこめて手を合わせます。

 

生きていくうえで粗末にしてはいけないものが3つあります。それは「食べ物」「自分」「人間関係」です。

 

家に食べる物があるのに、わざわざ高い物を買って散財したり、平気で残したり捨てるなど、食べ物を粗末にすることは、家計が崩壊したり、健康を害するなどして、必ず自分に返ってきます。

 

自分を大事にできない人が他人を大事にできるわけがありません。すると人間関係を失うことになります。この3つは密接につながっているのです。

食べ物=自分=人間関係と考えて、まずは食べ物を大切にすることから始めてほしいのです。

 

養父は戦争ですべての財産を失いました。羽振りのよかった頃は大勢の人が集まってきましたが、潮が引くように離れていきました。お金も分相応な暮らしができるくらい稼げば十分なのかもしれません。

 

禅の言葉に「足るを知る」という言葉があります。欲をかかずに、分相応で満足することで、精神的に豊かになり、幸せな気持ちで生きていけるというものです。

私たちが今、普通の暮らしができていることは、決して当たり前ではありません。日々の何気ない生活すべてに感謝して、持ちすぎない、無駄をしない、そんなシンプルな生活が心を豊かにしてくれるのだと思っています。

 

 

【お話しいただいた方】

小林照子
小林照子さん
美容研究家 メイクアップアーティスト
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1935年2月24日生まれ。コーセーで長年美容を研究し、1985年初の女性取締役に就任。56歳で起業し「美・ファイン研究所」、59歳で「フロムハンド小林照子メイクアップアカデミー(現フロムハンドメイクアップアカデミー)」を設立。75歳で高校卒業資格と美容の専門技術・知識を習得できる「青山ビューティ学院高等部」を設立し、美のプロフェッショナルの育成に注力する。84歳で設立した女性リーダーを育てる「アマテラスアカデミア」を自らの使命とし、現在はふたつの会社の経営に携わっている。著書に『これはしない、あれはする』(サンマーク出版)、『なりたいようになりなさい』(日本実業出版社)など多数。

 

イラスト/killdisco 取材・文/山村浩子

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