こんにちは、おでかけ女史組で、おでかけマイスター〈寺社部長〉をしている吉田さらさです。
いつもは寺と神社の旅に関する情報をお届けしていますが、
今回は番外編として、わたしの人生においてもっとも大切な趣味のひとつ、
フィギュアスケート鑑賞について語りたいと思います。
日本フィギュアの黄金時代の始まりは
ソルトレイクシティオリンピックから
第1回でも述べたように、1980年代後半以降、
日本人フィギュア選手も次第に世界のトップで活躍するようになり、
とりわけ女子においては、伊藤みどりさん、佐藤有香さんという
2人の世界チャンピオンも輩出しました。
そして1998年、日本で2度目の冬期オリンピックが、長野で開催されました。
この時は、男子は本田武史さんと田村岳斗さん、女子は荒川静香さんが出場しましたが、
3選手とも10位以下で、さほど目立つ活躍はできませんでした。
しかし、当時彼らはまだ高校生。
本田さんはその後カナダに渡って技を磨き、日本の4回転キングとなり、
田村さんは、現在、全日本チャンピオンの宮原知子選手のコーチとして活躍。
そして荒川さんは、ご存じのとおり、2006年のトリノオリンピックで金メダルに輝きました。
長野オリンピックは、この後に始まる黄金時代のための準備段階だったのかも知れません。
そして2002年のソルトレイクシティオリンピック。
ここから男女ともに、日本人選手の本格的な大躍進がはじまります。
男子は、本田武史さんが、ショートで、
当時大人気だったロシアのヤグディンとプルシェンコに続く3位となり、
男子初のメダルが期待されましたが、フリーで少しのミスがあり、残念ながら4位に。
本田さんはジャンプだけでなく表現力も優れており、フリーの「アランフェス協奏曲」の哀愁に満ちた演技が忘れられません。
女子は、アメリカのミッシェル・クワンとロシアのイリナ・スルツカヤの闘いと思われましたが、意外にも、若いサラ・ヒューズが3回転×3回転を次々に決めて金メダルとなりました。
メダル争いには関係がなかったものの、村主章枝さんの「月光」も素晴らしかったです。
また、演技力はまだまだだが、ジャンプが異様に高い恩田美栄さんにも人気が集まりました。
彼女たちは、のちに荒川さんや、次々に登場する才能ある選手たちと、女王の座を巡って闘いの火花を散らすこととなります。
次はフィギュアスケートの旧採点方法と新採点方法の違いについて詳しく解説します。
旧採点と新採点
こうしてソルトレイクシティオリンピックは、男女ともに日本の黄金時代の幕開けとなりました。
そしてもうひとつ忘れてはならないのは、
このオリンピックで採点の不正が明るみに出て、大きなスキャンダルになったことです。
問題があったのはシングルではなくペア競技でしたが、
これをきっかけに、その後のフィギュアスケートの採点方法は大きく変化して行きます。
それまでは、技術点、芸術点がそれぞれ6点満点からの減点方式、それに加えて順位点というものがありましたが、いずれも採点に明確な基準はなく、ジャッジの主観によって左右される面もあったため、不正が起きやすかったとも言われています。これを「旧採点」と言います。
それに対して、2004-2005シーズンから「新採点」と呼ばれるシステムが導入されました。技術点、演技構成点という二つの分野があり、ジャンプを始めとする要素ひとつひとつを細かく採点して合計点を競います。この方式では、難しい技を盛り込み、できがよければさらに点数がプラスされるため、羽生結弦選手が試合を重ねるごとに進化して世界最高点を更新し続けるという現象も起きるのです。
新採点への移行は、わたしたちファンの鑑賞方法にも大きな変化をもたらしました。
それまでは、順位は結局のところジャッジのさじ加減で決まり、一般人にはわかりにくい面がありましたが、
新採点になってからは、ひとつひとつのジャンプをよく見れば、
「なるほど、ここで回転不足というミスがあったから○点減点されたのだな」ということがわかるようになったのです。
これはテレビの画面を見ているだけでは難しいですが、大きな試合の採点は、それぞれの選手の演技が終了するとすぐインターネット上にアップされます。全員が演技を終了すると、プロトコルと言って、どのジャンプが何点、スケーティングスキルが何点というような細部もPDFファイルにまとめて公開されますので、わたしは、必ず録画を取り、あとでこのプロトコルと対照しながらスローで再生し、点数の詳細をチェックするようにしています。
採点方法や演技上のルールは、年々、さまざまな変更が行われますので、毎シーズン、最新情報をつかんでおかねばなりません。主な選手たちの現在の世界ランキングも、一応知っておく必要があります。そういった情報は、すべて、ISU(国際スケート連盟)のサイトの中の「single-and-pair-skating-and-ice-dance」のコーナーで探せます。
ISUのサイトは英語のみですし、ハードルは高いのですが、ここしか詳細情報を得るところはありません。
ちなみに、ある程度のフィギュアファンでも、プロトコルを解読できる人はそう多くありません。しかしながら、プロトコルを見ないと、なぜこの点数になるのか、本当のところはわからないので、ここは乗り越えるべき壁なのです。
ただし、はじめて見る方には解読しにくいので、まずは、どなたか詳しい方に解説してもらうことをお勧めいたします。
ISU(国際スケート連盟)のサイト
http://www.isu.org/en/single-and-pair-skating-and-ice-dance
次は、いよいよ荒川静香さんとの出会いについて。
荒川静香さんとの出会い
出会いと行っても、むろん個人的な知り合いというわけではないのですが、わたしは、ある時から荒川さんの演技に惚れこみ、それからトリノオリンピックまで、他人とは思えないほどの情熱で応援し続けたのでした。
荒川さんは16歳で長野オリンピックに出場しましたが、その後成績は低迷。続くソルトレイクシティオリンピックには、ライバルだった村主章枝さんが出場し、荒川さんは出場できず。おそらく苦い思いがあったのでしょう、その次のシーズンは、かなりな好成績を上げました。そのころわたしは荒川さんを「再発見」したのです。
テレビで試合を見ていた時、「あれ、この人って、ソルトレイクに出ていたどの選手(外国人選手も含む)よりも身体能力が高いのでは?」と感じ、思わず身を乗り出しました。荒川さんはフィギュア選手としては大柄な方ですが、柔軟性が高いので、体の動きはしなやか、かつダイナミック。次に日本の女王になるのはこの人しかいないと思い、わたしは、海外で試合があるたびに、インターネット上に荒川さんの点数がアップされるのを待つようになりました。
フィギュアの試合はヨーロッパや北米で行われることが多く、時差の関係で深夜になります。眠い目をこすりながら起きていて、荒川さんがよい点数をもらった時は、パソコンの前で「よっしゃー」と叫んでガッツポーズ。実際の演技を見ていなくても、点数だけで、おおよその演技が想像ができるようになったのはこのころから。試合の様子はのちに日本でも放送されますが、事前に情報を掴んでいれば、いきなりの転倒に心臓が爆発しそうになることもないので、安心して見られます。
応援のかいあって、荒川さんは2003~4年シーズンの世界選手権で優勝。日本人3人目の世界チャンピオンになりました。3回転×3回転×2回転などの大技を含む華麗な演技でした。しかし、2004~5年の世界選手権では9位と苦戦するなど、何かとハラハラさせられました。荒川さんは好不調の波が大きく、その上、しょっちゅう「もう引退します」と言い出しかねない雰囲気もあって、応援する側も気が抜けません。わたしはこのように、「わたしがついていてあげなければ」と思わせてくれる選手が好きなのかも知れません。
そして2005年12月、最大の山場である全日本選手権がやってきました。トリノオリンピックの3つの出場枠を巡って、荒川静香さん、村主章枝さん、恩田美栄さん、中野友加里さん、安藤美姫さんが熾烈な戦いを繰り広げました。年齢が規定に達しないためオリンピック出場権はなかったものの、浅田真央選手も出場していました。いずれも、そのシーズンのグランプリシリーズで見事な成績を上げて来た世界のトップ選手ばかり。毎年全日本選手権を見ていますが、あれほど白熱し、手に汗握った試合は、他にはなかったのではないでしょうか。結局荒川さんは滑り込みで3位になり、村主さん、安藤さんとともに、オリンピック出場が決まりました。
そしていよいよオリンピック本番。ショートで荒川さんは3位につけました。
「このままなら銅メダルは取れる、あわよくば銀も狙えるか?」と思いながら、わたしは荒川さんの滑走を待ちました。
荒川さんは、3回転×3回転が3回転×2回転になるなど少しのミスはあったものの、美しくトゥーランドットを滑り切って喝采を浴びました。
一方、荒川さんの上にいたサーシャ・コーエンとイリナ・スルツカヤは、フリーで転倒するなど大きなミス。
金メダルが決まった時の荒川さんの驚きの表情が今も目に焼き付いています。
わたしもテレビの前で何度も何度もガッツポーズ。
友人たちから、「金メダルおめでとうございます」というメールも続々届きました。
マンションの窓から「ご声援ありがとうございました」という垂れ幕を降ろそうかと思ったくらいです。まったく他人ごととは思えない喜びようでした。
あれから10年。荒川さんは結婚し、お子さんも生まれました。
しかしすぐに復帰し、今もショーで滑っておられます。
現役当時よりもプロになってからの方がより体の線が美しくなり、
スケーティングスキルもますます磨かれて、今も女王様の風格が十分です。
次ページではいよいよ高橋大輔さんが登場。熱い思いを語ります。
高橋大輔さんとの出会い
もちろん大ちゃんとも知り合いではありませんが、やはり、他人とは思えないほど熱を入れて応援させてもらいました。当時よく「大ちゃんを息子みたいに思っているんですね」という人がいましたが、それは違います。毎シーズン動向を見守り、成績がよければ喜び、怪我をすれば悲しみ、ともに困難を乗り越えてきた、人生を共に歩む同士。そんな感じでしょうか。荒川さんもそうであったように、「わたしがついていてあげなければ」と思わせてくれる選手が、わたしは好きなのです。
2002年、大ちゃんは日本人男子ではじめてジュニアの世界チャンピオンになりました。しかし、その後の道のりは険しいものでした。当時の大ちゃんに関しては、転倒する姿や泣きべそ顔しか覚えていないほどです。しかし、そんな彼にも覚醒の時がやってきました。
トリノオリンピック目前の2005年、グランプリシリーズの開幕戦アメリカ大会で、大ちゃんは、その後の彼の代名詞となった華麗なるステップを披露し、初優勝を飾りました。それまでの選手とはまったく違う独自の表現力。そして何より、前シーズンまでの泣きべそ顔とはまるで違う闘志に満ちた表情。人間、気持ち次第でここまで変われるんだ。それからわたしは、どんどん進化していく大ちゃんの熱狂的なファンとなったのです。
トリノオリンピックでは、フィギュア男子シングルの出場は大ちゃんひとり。そのプレッシャーからか、もうひとつ実力を出しきることができませんでした。しかしその翌年、東京で開催された世界選手権で、ついに大ちゃんは、日本人男子最高位である2位に輝きました。わたしはこの記念すべき試合を競技場で観戦するという好運に恵まれました。フリーのプログラムは、忘れもしないあの「オペラ座の怪人」。最後のステップに入るところで感極まったように両手を振り上げた時の大ちゃんは、涙ぐんでいたように思います。それは、以前の泣きべそとは違う歓喜の涙でした。
それ以降、アーティストとしての才能も大爆発。白鳥の湖ヒップホップバージョンなどの名作プログラムがいくつも生まれます。しかし、2008-2009シーズンの10月、大ちゃんは右膝に大怪我を負い、そのシーズンを手術とリハビリだけで過ごすことになりました。ファンとして、人生の同士として、どれほど心配したことか。
しかし2009年には無事復活し、2010年のバンクーバーオリンピックで、日本人男子初となる銅メダルを取りました。フリーの「道」の演技は、もはやスポーツの枠を超えた大輔ワールド全開のパフォーマンスでした。そしてそのシーズンの最後を飾る世界選手権で、大ちゃんは、ついに念願の世界チャンピオンのタイトルを手にしたのです。
その後も大ちゃんは現役を続け、これも伝説的プログラムである「エル・マンボ、ある恋の物語」を生みだします。「ウッ」と皆で掛け声をかけたくなるユーモラスな振り付けを覚えている方も多いのではないでしょうか。
しかし、さしもの大ちゃんも年齢による衰えは隠せず、2012年の全日本では、羽生結弦選手にチャンピオンの座を奪われます。また、このころから、遅咲きの「滑る哲学者」町田樹選手も台頭。2014年のソチオリンピックでは、羽生1位、町田5位に続く日本人最下位の6位となりました。しかし、この時の大ちゃんのフリー「ビートルズメドレー」も、バンクーバーの「道」に負けないほど感動的でした。
おそらくこの時、大ちゃんは、すでに現役引退を決めていたのだと思います。もう順位も点数も関係ない。ただただ滑るのが好きで、ここまで来たのだということが伝わって来るすがすがしい表情。できることはすべてやったという満足感。自分を支えてくれたフィギュアスケートというスポーツへの深いリスペクト、そうした万感の思いが込められた滑りに、わたしたちファンが贈った言葉は「今まであなたのファンでいられて幸せでした。ありがとう大ちゃん」の一言でした。
大ちゃんの引退後、わたしは一時的な虚脱状態に陥り、「わたしもそろそろ、フィギュアファンを引退しようかしら」などと思ったものです。しかし若い選手たちの活躍が、再びわたしのファン魂に火をつけてくれました。
「フィギュアとわたしの44年」第3回は、2016年の3月末~4月頭にアメリカのボストンで開催される世界選手権の見どころを中心に語らせていただきたいと思います。