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横森理香 連載小説「大人のリアリティ小説~mist~」シーズン1 終わらない春 第8話 屁っこき夫

横森理香

横森理香

作家・エッセイスト。1963年生まれ。多摩美術大学卒。 現代女性をリアルに描いた小説と、女性を応援するエッセイに定評があり、『40代 大人女子のためのお年頃読本』がベストセラーとなる。代表作『ぼぎちんバブル純愛物語』は文化庁の主宰する日本文学輸出プロジェクトに選出され、アメリカ、イギリス、ドイツ、アラブ諸国で翻訳出版されている。 著書に『コーネンキなんてこわくない』など多数。 また、「ベリーダンス健康法」の講師としても活躍。 主催するコミュニティサロン「シークレットロータス」でレッスンを行っている。 日本大人女子協会代表

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過去に愛された記憶は、今でも息づいている。女は年を取ると誰かに女として強く愛されることもなくなるし、自分から求めなくもなる。夫とは兄弟のようだし、娘はさっぱりした性格で、この家はまるでシェアハウスのようだと佐和は思った。・・・・・・大人女子のセツナイ内情を描く、横森先生が届ける~mist~をどうぞ。

横森理香 小説 mist

第8話 屁っこき夫

 

一日中パソコンで仕事をしている夫は、夕方になると本当にくたびれるようで、いやぁな雰囲気が漂っている。まるで、老体に鞭打って仕事をするのは、お前らのためだ、と言わんばかりに。

 

「オンラインだと会議も疲れるんだよな」

と愚痴を漏らしつつ、屁も漏らす。

 

「くさっ、オナラした?!」

娘が食卓でスマホを見つつ、佐知の方を睨む。

「え、私じゃないよ」

「じゃパパか。マジ臭いんですけど・・・」

夫は屁をこいた後、トイレに行った。

「パパのオナラ、なんとかしてほしい」

娘の文句も、当人には言えないので佐知に来る。

「え、私に言われても・・・」

「この間もそこにヨガマット敷いてストレッチしててさー」

 

夫はリビングフロアの上にヨガマットを敷き、よくストレッチしているのだ。一日中パソコン仕事で凝り固まった体を解さないと、夜もよく眠れないという。

 

「私の方にお尻向いてるのに、ブッて、オナラしたんだよっ。こっち向いてするか?! 私、ごはん食べてたのにさ」

「ほら、聞こえるっ」

トイレの水音がしたので、佐知は花梨を制した。

 

 

年取ると、男も色々とゆるくなるのか、夫は家族の前で平気でオナラをするようになった。まるでそこには誰もいないかのように、気も使わない。佐知より二歳年上だから、二年分老化も進んでいるのだろうか。

ルームメイトのような関係になってからだって、佐知はそれなりに気を使っていた。部屋着もオシャレなものにしていたし、とりあえず身支度を整えるまでは、家族の前には出ないようにしていた。

朝からメイクまではしなかったが、洗顔して髪を整え、パジャマから部屋着に着替えるまでは、誰にも見られたくなかった。その程度の女心は、まだ捨てられなかった。

 

「ぶあーっくしょいいっ」

夫が上がって来たと同時に、デカいクシャミをした。家族に向かって、である。え、咳エチケットは? 飛沫感染って知ってる?! 呆れて、佐知は花梨と目を見合わせた。

 

「ぶあー。なんだこれ、花粉かな?」

「・・・・ブタクサじゃね?」

「あー、かもねー。まだ咲いてるよね、セイタカアワダチソウ」

当たり障りのない会話をして、その場をしのぐ。オジン臭さ半端ないが、この人が一家の大黒柱である以上、仕方ないのだ。

 

佐知だって本当は、花梨と一緒に夫の悪口を言いたかった。自分の機嫌が悪いときはまるで上司のように、佐知の、主婦としての至らなさを叱咤する夫。佐知は心の中で、

「おめーに給料もらってねーから、命令される筋合いないんですけど」

と吐き捨てるのだった。しかし、生活費をもらっている以上、それは口には出せなかった。

 

夫は家では酒を飲まない主義だったが、コロナ以前は会社の人たちとよく飲み歩いていたから、それができないのもストレスなのだろう。

私だって、もう我慢も限界だよ。いなくならないだけでも、ありがたいと思ってほしいのに・・・。

佐知は心の中で泣くのだった。専業主婦の自殺が増えているという記事を新聞で読んだ時、佐知は、他人事ではないなと思った。

 

私だって、消えてなくなりたい・・・。

 

もう一年近く、家族とだけ過ごしている。その家族が面白くて、一緒にいて楽しいのならともかく、面白くもない、不快な事の方が多いのだ。きっと佐知の家だけでない。ほとんどの家庭がそうなのだろう。

もちろん、娘は可愛い。まだ若いし、一日リモートワークをしても疲れないから、機嫌もいい。あまり稼いでない母親をバカにしている節はあるが、母親として愛してくれていることも分かる。

 

それに比べて、夫はどうなんだろう。最近の夫は、ただの意地悪なオバサンみたいだ。重箱の隅をつつくようなチェックをして、

「窓枠、カビてるよ。なんとかしたら?」

などと、嫌味を言う。

「コーヒー切れそう」

「水、最後」

と、在庫チェックも厳しい。口を開けば、佐知に命令している。

「おめーの部下じゃねーし」

と、佐知は心の中で言うが、口には出さない。無言でいると、

「聞いてる?!」

とイラつかれるから、なんでもハイハイと、笑顔で答えねばならないのだ。

 

 

大企業の部長ともなると、誰かに何か指示を出さないと気が済まないのか、それがままならない今、家の中で妻に命令するしかないのだろう。娘には嫌われたくないから、それをするのは妻にだけ。オナラも本来娘の前ではしたくないが、出てしまうのは、致し方のないことなのだろう。

 

何事も、制御が効かない年になって来たのだ。テレビで、尿漏れシートやパンツのCMを見ると、佐知は他人事ではないなと、身を震わせるのだった。

「カサカサしないから、気づかれないね」

と、仲の良い熟年夫婦が言い合っている。

嫌だなぁ、あんなふうに、年を取りたくない・・・。

 

 

佐知はここのところ、サクッと死ねた従姉を羨ましいと思うようになっていた。死んだときは、まだ早いと感じたが、今となっては、いいタイミングだったのではとすら思う。

コロナの感染拡大はひどくなる一方で、娘の花梨は、ニュースを見るたび、

「もしかして一生このまんま?!」

などと言い始めた。花梨には二年ほど付き合った彼がいたが、コロナ禍で会えなくなって別れた。濃厚接触してもいいという女のもとに、彼が去ったのだ。花梨は年取った両親と同居だから、感染対策にはものすごく、気を使っていた。

 

もちろん、会社にも行ってないから、新しい出会いのチャンスもない。一生このまんまは、切実な恐怖だった。

「そんなことないよ。ワクチンも出来たみたいだし、今年はオリンピックも開催するみたいだから」

なんて言ってみたが、慰めにもならなかった。我が家の屁っこき夫は、

「ワクチンが我々の手に届くことになったら、解決だな」

と楽天的だ。

 

「ちっ」

佐知は心中で舌打ちをした。リモートワークになってからの愉しみは食べることだけなので、夫は三食きっちり、余すことなく食べてくれる。そのメニューを考えて食材を準備し、調理、配膳、片付けをするだけで一日は終わった。

 

「食い過ぎなんじゃね? オナラ臭いの」

夫がいないところで、花梨がニヤニヤしながら言った。佐知の溜飲は下がったが、「意地悪」といういやぁなムードが、この家には漂っていた。

横森理香 小説

イラスト/原知恵子

 

これまでのお話は、こちらで読めます。

次回は4月29日予定です。お楽しみに。

 

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