女性の悩みの多くは、実は個人のせいでなく環境の問題かもしれない
前編でご紹介したように、OurAge世代作家、深沢潮さんの最新長編『乳房のくにで』に登場するのは、母乳をきっかけに、相容れない感情が増幅するばかりの元同級生の福美と奈江、そんなふたりを思い通りに動かそうとたくらむ奈江の義母、千代。
三人の女性を軸にした物語は、後半思いがけない展開を見せます。
福美も奈江もそれぞれ新しい道を歩みますが、弁護士に転身した奈江は女性問題を扱って世間から注目され、意外なオファーを受けることになり……。
その展開は、当初考えていた筋書きとは全然変わった、と深沢さん。
「書き進めていくうちに、自分の内面にあった思いが小説に現れていくことに気づきました。
それは、女性をめぐる問題の多くが実は個人のせいではなく環境によるものだということ。それがだんだんと形になって現れてきたんです。
たとえば福美は最初自分の娘に母性を持てず、出生届を出すことすら躊躇しますが、それは“生活が不安定”という環境のせいでした。皮肉ですが、千代に雇われて経済的に安定したことで、福美は母性や普通の感情を取り戻すことができたんです」。
一方で、子どもがいてもキャリアを積んで自己実現をしたい奈江に対して、連載中は特に男性読者からの否定的な意見が多かったと言います。今どきは女性が出産後も働くのは一般的なはずですが…。
「でも、周囲に理解ある人や助けてくれる人がいなくて、施設などの物理的な条件にも恵まれた環境じゃないと、奈江が望む生き方は、設定の2000年から20年後の今でもまだまだ難しいのが現実です。
つまり、福美や奈江が生きにくいのは彼女たちのせいではなくて、社会構造のせい。それを説教がましく言うのはイヤなので(笑)、エンターテインメントとして読んでもらえる小説に描きました」
「逃げ恥」しかり。エンタメの力が、別の世界や物の見方を見せてくれる。そこから世界も豊かに広がってほしい
「エンターテインメントの力を信じているんです」とほほえむ深沢さん。今年初めに放映された『逃げるは恥だが役に立つ』(通称『逃げ恥』)のスペシャルドラマを観てその思いを強くしたそうです。
深沢潮(ふかざわ うしお) 東京都生まれ。2012年に第11回「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞。受賞作の「金江のおばさん」を含む『ハンサラン 愛する人びと』(新潮社)(文庫版は『縁を結うひと』に改題)でデビュー。『足りないくらし』(徳間文庫)、『海を抱いて月に眠る』(文芸春秋)、『かけらのかたち』(新潮社)など著書多数
「職場で女性が出産する時の暗黙の順番待ち、制度があるのに使いにくい男性の育児休暇など、たくさんの問題がちりばめられていましたね。私は“わかる、わかる”と思いながら観ましたが、若い方にとっては初めて知ることや気づくことが多かったかもしれません。
自分で気づくのも大事ですが、言われてみて気づくのもとても大事。エンターテインメントはその役割を果たせるものなんだと改めて感じました」
たとえ自分と立場は違っても、可能性を感じてエネルギーに変える力をエンタメから受け取りたいし、そういう作品を書いていきたい、と深沢さん。
それこそ、この『乳房のくにで』こそ、ドラマにしたら面白そう。授乳をめぐる女性たちの話が大きな世界の話になっていく展開に、後半も引き込まれます。福美と奈江の人生のその先は? 千代の策略は徳田家にのちのちどんな結果をもたらすのか? それは読んでのお楽しみですが…。
「自分の人生だけでなく、いろんな女性たちの人生も重ね合わせて読んでいただけたらうれしいですね。そして、自分たちが従ってきた上の世代の人たちの常識にも、もしかしたら間違いや、『呪い』があったかもしれないことも考えてみてもらえたら」。
ミレニアムを前にした1990年代末ごろ出産した福美と奈江は、小説の後半でOurAge世代を迎えます。彼女たちの人生を長いスパンで眺めることは、この世代の読者にとって、自分たちの人生を振り返ることにもなりそう。昔の「千代」の世代でもあるわけですから、「もしかすると、知らぬ間に呪いを再生産してしまう側になっているかもしれない」、と深沢さん。
「私もそうですが、自分が思い込んできたことや、もしかしたらそのためにおかした失敗などは、認めたくはないもの。でも逡巡しながらでも、今の時代に照らしておかしいところは勇気を持って誤りだと認めたいですね。考えを更新して、思い込みをあらためることができれば、いくつになっても気持ちのいい生き方や人間関係の広がりを期待できるのではないでしょうか」
『乳房のくにで』深沢潮 双葉社 ¥1600(税別)
21世紀を迎える区切りの年、2000年を目前にしたころ、生活に困窮していた福美は、母親くらいの年齢の女性からデパートで声をかけられる。彼女はベビー休憩室であふれるほど母乳が出る福美を見てスカウトしてきたのだった。やがて、とても裕福な家から乳母(ナニィ)として指名された福美だが、実はその家とは深い因縁があった。女性とは、家族とは、そして…、と考えずにはいられない長編小説
取材・文/山本圭子 撮影(人物)/山下みどり