1966年、18歳で資生堂夏用化粧品「ビューティケイク」のポスターモデルとして起用された前田美波里さん。
当時、その日本人離れしたスタイル、躍動感ある美しさに、日本中が衝撃を受けました。
時が過ぎて2020年7月、前田さんは資生堂のグローバルプレステージブランド「SHISEIDO」のグローバルアンバサダーに就任。「超えていこう。明日はもっと美しい。」というキャンペーンテーマのもと、“今”を乗り越え、“明るい未来”を迎えようというメッセージを伝えています。
驚異的な若さ、美しさは健在。どうしたらこんな素敵な70代になれるのでしょう?ライフスタイル、情熱を傾け続ける舞台について、若々しいボディのキープ術…レジェンドの”素顔”に迫りました。
まえだ びばり
女優。1948年8月8日生まれ。1964年に芸術座のミュージカル 『ノー・ストリングス』 でデビュー。1966年、資生堂イメージモデルとして登場。ポスターが店頭から持ち去られるほどの大反響を呼び、世間の注目を浴びる。その後は舞台を中心に、テレビドラマ、CM等で幅広く活躍中。
コロナ禍の中、当たり前の日常がどれほど贅沢だったか再認識しました
新型コロナウィルスの感染防止のため、2月26日を最後にステージ(帝国劇場で上演されていた堂本光一さん主演のミュージカル『Endless SHOCK』)の中止が決定。1か月以上もの公演を残し、無念さを抱えながら帝劇を後にしました。
そこから始まったのは自粛、自粛の日々です。自粛生活は、これまでたくさんの人に助けていただきながらやっていた家の中のことを、全部一人でこなすことから始めました。最初に家中のお掃除をしたのですが、まあいろいろなものが出てきましたね(笑)
日差しが陰る時間帯には、40分から1時間ほど、食料の買い出しを兼ねて家の近所を散歩。あらためて「自分はなんて素晴らしいところに住んでいたんだろう」としみじみ思いました。
街並みはどこまで行っても素敵だし、道端に小さな花が咲いているのを見ただけて嬉しくなってホロリとしてみたり。私たちが家の中にいた間も、ちゃんと季節は動いて自然の営みを続けていたんですものね。当たり前の日常がどれほど贅沢なものだったか、今回あらためて気づかされました。
舞台の中止決定は、寂しいなんて一言では言い表せないくらいでした
2月に舞台の中止が決まった時は、もう寂しいなんて一言で表せるものではなかったです。本当に残念に思いました。あの最高のステージを、もっともっと皆さんに観ていただきたかった……。劇場のスケジュールが空いていたら、もう一度年内に再演させていただきたいくらいです。
どんな形にせよ、生身の体をさらしながらお客様にたくさんの夢を与えていくのが、私たちのエンターテインメントです。ステージを観たいと望んでくださる方がいる限り、いつかは皆さんの手に戻したい。
もちろんコロナ以前と形は変わるでしょう。それでも私は元に戻る日が来ると信じていますし、そうできるよう努力していかなくてはいけないと思っています。
役者だけではなく、スタッフの皆さんが戻ってこられる状況にならなければ、日本のエンターテインメントは消滅します。舞台は総合芸術ですからね。スタッフの方々がいて、そしてお客様がいいねと言ってくださって初めて成り立つ世界です。私たち演者はワガママを言わず、粛々と演じ続けていくだけです。
しばらくは稽古でも厳しい状況が続くでしょうね。稽古の最中はマスクも付けないといけませんね。舞台の上でマスクは無理ですから、フェイスシールドが必要ならば付けましょうか。本当に、ウィルスには1日も早く消えてもらいたい。皆さんと同じく、私たち舞台に立つ者も全員がそう願っています。
資生堂のキャンペーンガールの仕事が転機に
私は10歳の時からクラシックバレエを始め、舞台俳優を夢見てきました。転機が訪れたのは18歳の時。資生堂さんにお声掛けいただき、「ビューティケイク」というファンデーションのキャンペーンガールのお仕事をしたのです。
ポスターは小麦色に焼けた私がビーチに寝そべるデザインで、「太陽に愛されよう」というキャッチフレーズがついていました。撮影したのは1年前だったため、街にポスターが貼られるようになった頃には、私自身がすっかりそのことを忘れていたのです。
当時は駅、デパート、化粧品店の店頭など、至るところにポスターが貼られ、どこへ行っても「こんにちは」と自分に挨拶ができるほどでした。
私は東京・お茶の水にある高校に通っていたのですが、学校から帰ろうとすると、近所にある明治大学の男子学生が4~5人ぞろぞろとついて来る。当然ながら私はお化粧をしていないので、向こうも本当に私かどうか決めかねている様子でした。なかにはトントンと肩を叩いて「前田美波里さんだよね?」と確認してくる人もいましたっけ。
その仕事を機に、私の人生は大きく変わりました。朝の情報番組には全て出演。どこへ行っても「前田美波里だ」ともてはやされました。
人は人、自分は自分――。
そう思えるようになったのは60代になってから
とはいえまだ10代のヒヨッコですからね。気の利いたおしゃべりができるわけでもなく、何をどうしたらいいのかすら分からない。しかも映画のお話まで舞い込んできたのですからビックリです。私は舞台人になりたいはずなのに、なんで映画に出なくちゃいけないのかしら、なんて思ったこともありました。
取材も殺到しました。しかもすべて「水着姿でお願いします」という要望付きで。でも私は水着なんか持っていない。そうしたら当時のマネージャーさんが賢い人で、「もしも水着の写真をお撮りになりたいのなら、他誌とかぶらないよう水着を買ってご用意ください」と言ったんです(笑)。私は体が大きくて日本製の水着が合わなかったため、以降は常に銀座にある最高級のお店で買ってもらっていました。
おかげさまで前田美波里という名前を世間の皆さんに知っていただくことはできましたが、私は不器用でしたからね。失敗もたくさんありました。コツコツやっているわりに花が咲かないと言いますか、本当に苦しい時期が長かった。「あの人にはできて、どうして私にはできないんだろう?」「あの人にはあんな仕事が入って、どうして私には来ないんだろう?」と、周囲と自分を比べては落ち込んでいました。
私の苦い経験から得た教訓としてお伝えしたいのですが、人と自分とを比べても意味がありません。よく「人は人、自分は自分」と言いますけれど、本当にその通りだと思います。――とはいえ、私が「人は人。前田美波里はこの世に一人しかいないんだから」と考えられるようになったのは、ごく最近。60代になってからでした。
<後編に続きます>
取材・文/上田恵子