1935年2月24日生まれ。コーセーで長年美容を研究し、1985年初の女性取締役に就任。56歳で起業し「美・ファイン研究所」、59歳で「フロムハンド小林照子メイクアップアカデミー(現フロムハンドメイクアップアカデミー)」を設立。75歳で高校卒業資格と美容の専門技術・知識を習得できる「青山ビューティ学院高等部」を設立し、美のプロフェッショナルの育成に注力する。84歳で設立した女性リーダーを育てる「アマテラスアカデミア」を自らの使命とし、現在はふたつの会社の経営に携わっている。著書に『これはしない、あれはする』(サンマーク出版)、『なりたいようになりなさい』(日本実業出版社)など多数。
妊娠中の母親の気持ちは胎教として子に伝わる
私は1935年(昭和10年)2月24日、父・小川市太郎と母・トシコのもと、現在の東京都練馬区に生まれました。人を照らすという意味をこめて照子と名づけられ、祖父母が建てた日本的なたたずまいの家で育ちました。
両親と2歳年上の兄・洋司。母の膝に乗っているのが私です。その後、年子の妹・よしこも生まれ、両親が離婚する3歳までは、5人家族として暮らしていました。当時は何不自由のない満ち足りた生活だったと思います。
父は子どもの頃は歌舞伎の後継者にと期待され、歌舞伎役者の市川八百蔵の芸養子になる予定でしたが、関東大震災のため芸の道には進まず、日本橋で証券会社を経営することになります。
長身で男前、非常に話し上手で人を魅了する力に富んでいたといいます。目の前にいる相手を観察して、瞬時にその人が喜ぶような会話が自然にできる人で、証券会社の社長として人望が厚く、金銭的にも裕福でした。顧客などを集めては芸者を揚げて宴会を催すなど、華やかなことが似合う人でした。
一方、母は看護師や助産師をしていて、人の痛いところにさっと手を差し伸べられる慈愛の塊のような人でした。それは母の幼い頃の経験が影響しているのかもしれません。
母が10歳の頃、母の弟である叔父の義男が生まれたのですが、その出産時に祖母は亡くなってしまいます。当時の出産はまさに命がけだったんですね。
母はわずか10歳にして母親役となり、弟を育てることになりました。
ですから、よく義男叔父からは「幼い頃の記憶は姉の姿しかない」と聞かされていました。母が助産師になったのは、そのときの悲しさや悔しさ、苦労などから、少しでも母子の健康を守りたいという気持ちがあったのかもしれません。
私自身は、父母や兄妹などと性格がまったく違う、突然変異だと言われます(笑)。私だけがなんにでも興味を抱き、常に好奇心旺盛で積極的、ポジティブ思考で楽天的なのです。
その理由を考えると、私がこの性格を授かったのは、母のお腹の中にいるときのような気がするのです。
母にとって、私がお腹の中にいるときが、生涯でいちばん幸せだったのではないか? 待望の跡継ぎとして第一子の兄が生まれ、実際に父は兄を溺愛していました。兄の写真だけ山ほどあり、明らかにほかの二人とは別格に愛情を注いでいたと思います(笑)。
そんな幸せの絶頂期に二人目の私を妊娠。母には少しネガティブなところがありましたが、そのときは母として女性として充実した日々で、自信と幸せに満ちあふれた気持ちが、胎教として私に伝わったのではないかと思えるのです。
時々、同じ兄弟姉妹でも、姉は活発な性格だけど、妹は自分に自信が持てなくて引っ込み思案だといったことがありますよね。それはお腹の中にいたときの、母親の気持ちや思考が伝わるのだと思うのです。
ですから、私はよく妊娠中の方に「お腹の赤ちゃんに伝わるから、いつも楽しい幸せな気持ちで、楽観的に日々を過ごしてね」とアドバイスしています。
子どもにネガティブな言葉を発してはいけない
赤ちゃんが生まれたあとも、まだ言葉もわからない乳飲み子であっても、その子の前でネガティブなことを言わないほうがいいですね。
つい「おねえちゃんは目がぱっちりなのに、あなたはパパに似て目が細いわね」といったように、兄弟姉妹と比べた発言をしてしまうことがありますが、それは控えるべきです。
私がメイクアップアーティストになって、多くの人と接する中で感じたことですが、コンプレックスのほとんどが幼少期から思春期に、親や兄弟姉妹、または親戚や友人など、身近な人から何気なく言われたことが原因になっています。
だから子どもは、その子のよいところを認めて、愛情を注いで育ててほしいのです。
私はきっと、お腹の中で母の幸せオーラを存分に受けて生育し、生まれてきたような気がしてなりません。
私が大人になってから、母から私の幼児期のエピソードを聞いたことがあります。
私が1歳のときに妹が生まれました。ある日、母が布団に横になって妹におっぱいをあげていたときのこと。まだまだ赤ちゃんである私も、母のお乳が恋しかったのか、ハイハイをしながら二人のもとに近寄ったのだそうです。
すると、すでに母のおっぱいには妹という先客が。それに気づくやいなや、「あ、失礼しました」と言わんばかりにぺこりとおじぎをして、くるりと向きを変えて離れていったそうです。「それはそれは、おかしかったわよ!」と母が話してくれて、二人で笑ったものです。
そんな楽天的な私ですが、一度だけ母の背中で大泣きをしたことがあります。その記憶は私自身の幼児期最古の出来事として残っています。
ある日の夕方、私は母に背負われて、家の外に出て父の帰りを待っていました。夕日に染まる原っぱに夜の空気が流れても、なかなか帰ってこない父。その瞬間、母の寂しい感情が、まるでパソコンの端末同士が同期するかのように、一瞬にして私に伝わってきたのです。
私がおぶわれていたことを考えると、妹が母のお腹の中にいた時期かもしれません。私にとっては何も悲しいことはなかったのに、感情をあらわにして大泣きしました。そのときに感じた、なんとも言えない悲しい気持ち、切ない感覚が今でもはっきりと体に残っています。
その後、私が3歳のときに両親は離婚しました。ひょっとしたら、あのとき母はその兆候をいち早く察知していたのかもしれません。
イラスト/killdisco 取材・文/山村浩子