3度目の検査で乳がんと診断された美容ジャーナリストの山崎多賀子さん。不安感を取り除くために乳がんに関するさまざまな情報収集を行ない手術に挑みましたが、またもやまさかの事態が発生することになります。山崎さんはどのように乗り越えたのでしょうか。
山崎多賀子さん
Takako Yamazaki
1960年生まれ。会社員、編集者を経て美容ジャーナリストに。自らの乳がんの体験を綴った雑誌連載をまとめた『「キレイに治す乳がん」宣言!』(光文社)を刊行。アピアランスケアをはじめ、乳がん関連のセミナーや講演、支援活動、執筆など幅広く活躍
抗がん剤治療に抵抗はあったけれど、
治療を受け入れ、今の元気と
新しい活動の基盤を手に入れました。
そして2005年12月、大学病院で右乳房全摘出、同時再建の手術を行いました。術後目が覚めて、リンパと乳首の温存、乳房再建が問題なくうまくいったことを医師から告げられ、まずは安堵。術後の経過も良好で、胸に痛みはあるものの、悪いものを取ったという充実感も大きかったといいます。ところが…。
「退院して10日後に、経過観察と病理の結果を聞きに行って衝撃を受けました。医師から『浸潤している部分が多数見つかりました。いずれ再発する可能性があります』と告げられたんです。もうこれで治療は終わり、と思っていたので、頭を殴られたようなショックでした」
患部の組織を病理検査で詳しく調べないと、がんの正確なタイプや悪性度、進行状態はわかりません。“浸潤”とは、がん細胞がまわりに広がっていることを意味します。山崎さんの乳がんは、最初の想定よりも悪い状態だったのです。医師からは、再発を防ぐ治療として、抗がん剤治療とホルモン療法の選択を提案されます。
「がんの告知以上にパニックでした。当時の私は、抗がん剤は毒だと思っていたので、健康な細胞まで壊してしまう抗がん剤なんて絶対イヤ、毛が抜けるなんて論外! さらにホルモン療法で女性ホルモンを止めるなんてありえない…と、薬物療法をすぐには受け入れられませんでした」
医師からは、術後3カ月以内に抗がん剤などの薬物療法を開始したいと提示されたのですが、なかなか答えが出せない状況に…。
「そんなとき、同じ病室だった乳がんの先輩が肺転移で亡くなってしまったのです。改めて、がんは命にかかわる病気で、逃げている場合ではないと気づき、再発の可能性もあるならと、次へ進む決心を固めました」
山崎さんは、抗がん剤の投与を半年、同時にがん細胞の増殖因子に的を絞って攻撃する新しいタイプの化学療法“分子標的薬”の投与を1年間行い、さらに5年間、ホルモン療法による治療を進めました。
「抗がん剤を恐れていた私ですが、副作用の症状には個人差が大きいことを知りました。私自身、体調がいい時期は普通に仕事もできました。ただ、外見の変化は出ましたね」
副作用による脱毛が、頭髪以外に眉毛やまつ毛、体毛など全身に及んだことも。また、肌の変色など、見た目の病気感も気になったといいます。
「見た目は二の次、まずは治療と思う人も多いのでしょうが、当事者になってみると、外見の変化が原因で外出を控え、人と会うことをやめて一人で引きこもってしまう患者さんも多いんですね。私は美容を中心に仕事をしていたので、メイクできれいに見せる知識があります。今こそ、この知識を活用するときだと思って、雑誌で闘病と外見のケアに関する情報を連載しました」
その後は幸い再発もなく、がん告知から14年、最後のホルモン療法からは約7年が経過しました。最近は、美容ジャーナリストの仕事に加えて、がん治療の啓発活動や、がん患者さんへの外見のサポート「アピアランスケア」の活動が増えているという山崎さん。
「がんはつらい出来事でしたが、世界は大きく広がり、新たなやりがいも生まれました。でも無理に欲張りすぎない。そんな生き方も、がんが教えてくれたような気がします」
※マンモトーム生検…画像を見ながら乳房の病変に針を刺して組織を摘出し、良性か悪性かを診断する検査。採取する組織の量が多く、より確実な診断が可能。
外見の変化による精神的ダメージを実感
「抗がん剤では、髪の脱毛以外にも、肌のくすみ、眉毛やまつ毛が抜ける副作用で顔の印象が変わります。美容の知識を生かして、元気に見える方法を雑誌記事で連載。現在もアピアランスケアの支援活動をしています」
趣味のバレーボールが心の支えに
「がん治療をすると日常生活が送れないと思っている人も多いと思います。でも、私は術後2カ月半でバレーボールを再開。抗がん剤治療中も体調がいいときは参加していました。普通の生活は心の支えになります」
次回は漫画家、内田春菊さんのがん体験記をご紹介します。
撮影/フルフォード海 ヘア&メイク/木下庸子(プラントオパール)取材・原文/伊藤まなび