菅原孝標娘(すがわらのたかすえのむすめ)。今回取り上げる『更級日記』の作者です。中流貴族の生まれだったそうですが、5代前の祖先にあの菅原道真、伯母には『蜻蛉日記』を書いた藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは、『光る君へ』では財前直見さんが演じていました)を持つ、今でいえばかなりの家柄です。
ただ、惜しかったーー!当時、「あづま路の道の果てよりも、なお奥つ方に生ひ出でたる人」、つまり、あづま路の果て、常陸の国よりももっともっと奥のほうで育った、イコール、京都からはものすごーーーく遠い田舎に育ったのが彼女だったのです。父の任官でかの地へ赴いたらしいのですが、ある日とんでもない出会いをしてしまった…それが『源氏物語』でした。
というわけで、彼女が書いた『更級日記』を、またまた爆笑漫画にしてくれました、あの小迎裕美子さんが!
『胸はしる 更級日記』
(小迎裕美子・菅原孝標娘 著 赤間恵都子 監修)
KADOKAWA 刊 1,430円
小迎さんといえば、以前もご紹介した下の2つの作品、
【右】『新編 人生はあはれなり… 紫式部日記』
(小迎裕美子・紫式部 著 赤間恵都子 監修)
【左】『新編 本日もいとをかし!! 枕草子』
(小迎裕美子・清少納言 著 赤間恵都子 監修)
KADOKAWA 刊 各1,320円
爆笑の2冊に続き、今回も期待にたがわず『更級日記』を見事によみがえらせてくれました。
清少納言を“ナゴン”、紫式部を“シキブ”と呼んだ小迎さん、当然、菅原孝標娘は“ムスメ”と呼んでいます。『枕草子』『紫式部日記』に比べて『更級日記』は地味というか、あまり知られていないと思います。でも、今回この本を読んで私はムスメにとてもシンパシーを感じました。
ひとつは、自分の生い立ちを書いていること。それは他の二つの作品とはかなり違います。『紫式部日記』も、日記とありますが、実は個人的な日記ではなく、中宮彰子(しょうし)のお産や藤原道長の記録がメインだったりします。でも、ムスメの『更級日記』は50代になった彼女が、自分の過去を振り返って書きとどめたもの。そこには、物語が読みたくて読みたくて焦がれた頃から、父に従って京へ上がった旅日記、義母や姉との関係…といった、今でもおおいに共感できるリアルな記録があるのです。
もうひとつは…
とにかく推しマインド!!
と、今なら言っていいと思います、源氏物語が読みたい渇望。「本なんか読めばいいじゃない」と、ピンときませんが、なんせ1000年前、まず物語自体少なかったそう。さらに紙は超ーーー貴重品。当然、印刷技術などあるはずもなく、原本を人の手でコツコツ書き写すしかありませんでした。どんなに「本が読みたい」と思っても、そうそう簡単には手に入りません。それはかつて「あー、ビデオデッキがあれば『宇宙戦艦ヤマト』録画して何回も観られるのに」と焦がれた(個人的)体験があるからよくわかる。
それは「推しに会えたら死んでもいい」というほどの、狂おしいほどの気持ちとも言えるかもしれません。それをムスメは
はしるはしる
と表現しています。
「はしる」とは、ワクワクという意味で「はしるはしる」と2つ重ねた言葉はムスメオリジナルの言葉だそうです。
と、小迎さんは書いています。
ムスメのワードセンス、すばらしいと思いませんか?今なら「超ヤバい」といったところでしょうか。何かに感激する、うれしくてワクワクするという気持ちは1000年前も現代もまったく変わらない。それをビビッドに描いたところに、現代の私たちも共感するのではないでしょうか。
そしてとうとう、彼女が源氏物語を手にする日が来ます。几帳のうちに寝っ転がって胸をときめかせて読む、昼も夜も没頭しすぎて、ソラで覚えてしまったほど。この辺も「わかるわかる」というところ。ムスメが特に好きだったヒロインは夕顔と浮舟だったそう。
そんな夢見る少女から成長するうちに、ムスメはいやでも現実に向き合わなければならなくなります。仲が良かった姉の死、老いた両親に代わり、一家をきりもりせざるを得なくなる重責、慣れない出仕への葛藤、あまりに期待外れだった結婚…思い通りにいかないことも多いけれど、時々、物語や恋に憧れる気持ちが沸き上がって、ひそかにときめくこともある。この辺も、まったく私たちと同じではないでしょうか。
その後、所在不明となっていた『更級日記』を発見し、写本として残したのが、あの藤原定家です。ムスメの時代から170年後、世は武士の時代となっていました。
1000年前の書物をいま読むことができるに至っている
ここまでの先人たちのバトンリレーに
尊さを感じずにはいられません。
と小迎さんは「あとがき」に記しています。まったく同感です。それはやはり物語、楽しいもの美しいものへの憧れ、「はしるはしる」のなせる業かもしれません。