「この作品を気に入ってくれた人が、1日数分でいいから、誰かを助けるために思いをはせる時間を持ってくれたらうれしい」(ジョニー・デップ)
戦後日本の高度成長期に、熊本県の水俣湾とその周辺で起こった公害事件「水俣病」。その深刻な被害が全世界に伝わったのは、71年に来日したニューヨーク在住のフォト・ジャーナリスト、ユージン・スミスと当時の妻アイリーン・美緒子・スミスが、その被害者たちと共に暮らし、つぶさに取材して撮影した多くの写真を通じてだった。
そのユージン・スミスを主人公にした、映画『MINAMATA-ミナマタ-』が製作された。この映画に、ジョニー・デップが主演する、と聞いて驚いた人も少なくないだろう。確かに異色な組み合わせにも思える。しかしスクリーンの中のジョニーは、「ピークを過ぎて人生に迷いながら、写真のために全てを捧げる著名なフォト・ジャーナリスト、ユージン・スミス」本人かと見まがうほど、彼になりきっていた。
第二次世界大戦の際に従軍カメラマンとして来日、戦火の沖縄で深い傷を負い、身体も心も傷ついたユージン。傲岸不遜なようでいて細やかな彼の複雑なキャラクターを、ジョニー・デップは真摯に演じている © Larry Horricks
主演するだけでなく、この映画の共同プロデューサーもかって出たジョニー・デップ。彼の意気込みは、公開前のオンライン・インタビューでの発言からも伝わってくる。
「特別な作品を作っているという自覚がありました。ユージン・スミスの生きてきた証、成し遂げたこと、それらを演じることに責任を感じました。
映画の製作の前後で(コロナ禍により)世界は変わり、情熱はさらに強まりました。大切なのは困っている人が隣にいたら助ける、というシンプルなことです。
この作品を気に入っていただけたら嬉しいし、水俣の人たちが経験してきたことを思い起こして欲しい。それは皆さんの近くにもあることだからです。誰かを助けることはできないか、何かできることはないか、1日数分でいいから他人に思いを寄せてほしい」と。
彼の思いに答えた監督、アンドリュー・レヴィタスの元に、被害者たちのリーダー役を演じる真田広之や、チッソ社長役の國村隼、アイリーン役の美波ら、日本の名優たちが集まり熱演。音楽を坂本龍一が担当するなど、豊かな才能と志を携えた人たちが国境を超えて力を出し合い、協力しあってできたこの映画は、初公開されたベルリン国際映画祭で絶賛され、世界の注目を集めている。
名優たちの演技で、公害をめぐる攻防がリアルに迫ってくる。1971年当時、ネット社会の今とは違い、メディアも限られた中、中央から遠く離れた、閉ざされた地域の事実が世界に届けられた意義はとてつもなく大きかった © Larry Horricks (3点全て)
「運命の出会いがあったから、人々に溶けこめるユージンだったから、MINAMATAの写真は撮れた」
重く、決して華やかではないテーマ、そして50年以上も時差もあるこの事実を、一本の映画に作り上げる中で、実は要となった女性がいた。まさにその50年前、ユージンと一緒に水俣にやってきて撮影や暮らしの全てを共にし、連名で写真集を発表した当時の妻、アイリーン・美緒子・スミスさん、その人だ。
今も日本で環境保護活動を続けるそのアイリーンさんに、今回はオンライン・インタビューで当時の状況、そして今回の映画への思いについて、お話をうかがった。
アイリーン・美緒子・スミスさん。ユージンと出会い、当時通っていた名門スタンフォード大学を退学したが、水俣で公害の現実と出会った後、コロンビア大学で環境化学の修士号を取得。原子力問題を中心として環境問題に長年取り組んでいる
「この作品に近い企画はかなり前からいろいろありましたけど、なかなか実現しませんでした。だから今回も、このまま立ち消えてしまうかも、と思っていたんです。ところが、2018年にジョニー・デップさん自ら主演することが決まり、プロデュースも手がけたいと名乗り出てくれたことが大きかったと思います。彼がユージンを演じると聞いたとき、初めて『ああ、これで本当に実現するんだ』と、嬉しく思いました。
監督のアンドリュー・レヴィタスとも時間をかけて電話で話をしました。彼は77年生まれですが、環境問題などに元々関心のある人なので年齢には関係なく、共通するものがありました。私は、経験したことを彼に伝え、彼のいくつもの質問に答えていきました。」アイリーンさんは、映画製作の初期をふり返る。
2020年、ベルリン国際映画祭での初上映後には、大勢の観客が映画で描かれた水俣病に興味を持ち、『資料がほしい』『こんなことがあったのか。もっと知りたい』と押し寄せてきたという。
それにしても、当時21歳のアイリーンさんと51歳のユージンが出会い、結婚してすぐ水俣に向かったこと、そして今、50年を経て映画が作られ、当事者のアイリーンさんが関わっていること…。すべてが不思議な巡り合わせのようだ。
「ユージンと私の出会いは、いま思うと運命的だったと思います。当時ニューヨークで回顧展の準備をしていたユージンと、日本の血を引く私、そこにもう1人、日本から来た元村和彦さんという人がいて、彼が熊本県の水俣で起きている公害病のことを話してくれました。ユージンはすぐに、これは取り上げるべきテーマだと考え、日本に行くことにしました。そして私たちは3年間水俣で暮らして、水俣で起きているさまざまなことを撮影しました。」
50年前、水俣で過ごすユージンとアイリーン。にこやかな笑顔だが、当時の緊迫した状況や、日米、東京と水俣の距離感の違いを思うと、そこに飛び込むことの決意のほどが想像できる photo by Takeshi Ishikawa ©️Ishikawa Takeshi
本編のストーリーにはフィクションも加わり、現実とは少し違うが、そこにこだわりはなかったという。映画は観る人に伝えるためにあるもの、という思いで、脚本も演出も、アイリーンさんは全てレヴィタス監督に委ねた。
映画では、ユージンが地元の被害者を撮影することをめぐる葛藤と、撮る側と撮られる側の間の隔たりがなくなるまでが描かれていて、そのシーンは特に感動的だ。ユージンは、その壁も自然に乗り越えていたとアイリーンさんは回想する。
「ユージンはアメリカ人のフォト・ジャーナリストですが、地元の人たちにすっと溶け込み、自然にそこにいるような存在でしたね。ジャーナリストとして汚染の事実を伝えるとともに、水俣にある生活としての写真を撮り続けました。抗議行動や裁判だけではなく、水俣の人たちの日常、畑仕事や子どもの運動会などにも目を向けていました」
その結果、他の誰にも撮影できない、奇蹟のような写真が写し出された……。
地域の人たちとの自然な交流。そして数々の困難に遭遇しながらも共に闘うユージンは、次第に「仲間」となり、より近い目線で写真を撮っていく…。ありし日の海辺の風景を求めて、3カ国で行われたロケで撮影された映像の美しさにも心が動かされる © Larry Horricks
映画『MINAMATA-ミナマタ-』は、素晴らしいヒューマンドラマとして、フィクションの力も借りて仕上げられ、より強いメッセージを伝えている。日本の高度成長期に、電化製品やテレビなどが普及されて生活が豊かになってきた。その陰で、その部品になる塩化ビニールやプラスチックの原料を作って大きな利益を上げていた企業の工場排水によって、人々の命や健康が冒されていたことも事実だ。彼らの想像を絶する苦しみから決して目を背けてはいけない、平和な日常が理不尽に奪われた人々のことを忘れてはならない、ということをこの映画は今に伝えている。
→後編ではアイリーンさんがユージンから受けた「教え」、そして今、それを未来に向けて伝える喜びについて、さらにうかがいます。
●アイリーン・美緒子・スミス
1950年、東京生まれ。1968年スタンフォード大学入学、83年コロンビア大学にて環境科学の修士号取得。 1971年から水俣病取材のため水俣に住み、1975年に写真集「MINAMATA」をユージン・スミス氏と出版。 1979年、スリーマイル島原発事故調査のため現地に1年間住む。 1991年グリーン・アクション設立
●映画「MINAMATAーミナマター」9月23日(木・祝)TOHOシネマズ 日比谷ほかにて全国公開
監督/アンドリュー・レヴィタス
出演/ジョニー・デップ、真田広之、國村隼、美波、加瀬亮、浅野忠信、岩瀬晶子、ビル・ナイ
配給/ロングライド、アルバトロス・フィルム