着物警察の撃退法について、もうひとり話を聞きたい人がいた。
2019年の夏、竹久夢二美術館で『アンティーク着物万華鏡 大正〜昭和の乙女に学ぶ着こなし』という展覧会が開催された。それは竹久夢二や高畠華宵をはじめとする、大正から昭和にかけて活躍した抒情画家たちが描いた女性たちの着物コーディネートを紹介するものだ。
これを見て、私は当時の着こなしに驚いた。大正から昭和初期の着物ファッションは、ハイセンスで新鮮で自由で、今どきの着物警察ルールを基準にしたらぶっ飛んだモノばかりだったのだ。
和洋折衷コーディネートはあたりまえ。指輪も当然、たまにイヤリングも。登場しないアイテムは、ブレスレットくらいだろうか。ストラップのハイヒールに膝丈の着物の胸元を盛大に開けてワンピース風に着るなど、さすがに斬新すぎてギョッとするものもあった。
この展示に興味を持ったきっかけは、広告で使われていた〝着物警察なんて怖くない!〟のキャッチコピーだったのだ。
なぜこのコピーを使ったのか? 展示企画を担当した、学芸員の中川春香さんに訊いてみた。
「着物警察という言葉は、2〜3年前からSNSワードで見かけるようになって気になっていました。今どきの着物ルールは、戦後にできた礼装を基準にしたものです。戦前の着こなしが違うことは、絵画を見てわかっていたので、日常のおしゃれ着にチクチク言う必要なんかないのに、と思っていました。キャッチコピーは、企画の打ち合せ段階から『こんなのを見たら、着物警察も真っ青だね』などと話しあうことも多くて、それを利用しました」
職業柄、着物文化に関する歴史資料を読みこむことも多い中川さんは、プライベートでも着物を楽しんでいるという。着物に興味を持ったきっかけは、アンティーク着物ブームの火付け役になったファッション誌『KIMONO姫』を中学生のときに読んで、こんなカワイイ着物があったの! と衝撃をうけたことだったという。
年齢と好みから、着物警察の標的になりやすそうだが、中川さんも遭遇経験があるのだろうか?
「町中で会ったことはないのですが、お茶をやっているときは『帯揚げはこんなに出しちゃダメよ』とか、教えていただくこともありました。茶道にはルールや決まり事が多くそこに価値もあるのですが、流派や指導する先生によって違う部分もあるんです。でも自分が習ったことだけを絶対視している人もいて、突然知らない方から指摘されることもありました」
【戦争でリセットされたオシャレ文化】
着物には、ピシッと着付ける美しさもある。でも、それしか正解がないという考えに遭遇すると「違うな、と思います」と中川さんは言う。
グラビア写真などなかった時代、美人画や叙情画は最新モードの発信源だった。夢二をはじめとする絵画はフワフワしたイメージがあるけれど、ファッションに関しては絵空事ではなかったのだ。
なかでも大正から昭和初期は、着物を日常着としていた日本人のおしゃれがもっとも成熟していた時代だった。
「当時でも、年齢や身分に応じた着物のルールはありましたが、今よりも着物が身近なので、これでないとダメというものはありませんでした。そうした自由でおしゃれな着物文化は、戦争によって一度断絶してしまったんです」
その後、昭和三十年代後半から四十年代にかけて生まれたのが、現在へと続く新しい着物ルールだったという。
戦後の日本人が着物に注目したのは、美智子様のご成婚時の美しい着物姿がきっかけだった。人気に拍車がかかったのは、東京オリンピック開催でのコンパニオンの振り袖だという。同時に、着物人口が激減して斜陽産業になっていた呉服業界が、生き残りをかけて高級路線につき進んだことで、着物=高価な礼装になったのだという。
【着物警察の〝大ボス〟が登場?】
夢二の時代の半衿(襦袢の衿に重ねてつける布のこと)は色柄ものが主流で、着物とコーディネートするのが当然のおしゃれアイテムのひとつだった。
だが今どきの着物ルールでは、半衿の色は白が基本といわれている。レフ版効果を使いたい、着こなしに抜け感をつくりたいときはいいけれど、いつなんどきも白なんて制服じゃあるまいし、と思うのだ。
「これはどこからきたルールなんですか?」
「礼装が基本になっていることが大きいかと思いますが、茶道の影響もあるかもしれません。清潔で、華美でない着こなしが良いとされているので。これも戦後に定着したルールです。亡くなった祖母は、戦後は半衿が白ばかりでつまらないわ、と言っていました」
そういえば着物文化をテーマにした著作で有名な近藤富枝も、これとちょっと似た話を書いている。明治時代、本人の祖母が女学校に通っていたとき、校則で決められた白い半衿のダサさに堪えられず、通学時は好みの色柄のものを重ねていた。校門の五十メートルくらい前になったら半衿をサッと引き抜いて、なにくわぬ顔で登校したというのだ。
今も昔も、女子高生って変わらないのだなぁ。微笑ましいエピソードに和んでいると、中川さんは貴重な情報を口にした。
「これは『きもの文化と日本』という本に出てくるのですが、戦後の着物ルールの土台をつくったのは、裏千家十四代家元の長女だったといわれています」
昭和四十年代に出された本がベストセラーになって、その影響が大きかったようだ。そうだったのか!妙に茶道のルールが幅をきかせているなと思ったけれど、まったく偶然じゃなかったのだ。
後で確認すると、昭和47年に『きものの本』という本が出版されていることがわかった。茶道のきまり事をベースにした注意事項がまとめられていて、その数、なんと三百九十個!いったいどんなルールなのだろう?
怖い物見たさの好奇心はあったが、手にとる勇気はなかった。
私ごときが対峙したら、裸足で逃げる前に爆風で吹き飛ばされて、塵になる確率二百パーセントだ。これ以上は触れるまい、と思ったのだった。
(つづく)
イラスト/田尻真弓