人生、予測もつかないことが起こるもの
私は1935年(昭和10年)、現在の東京都練馬区で3人兄妹の2番目として生まれました。父・小川市太郎は日本橋で証券会社を経営。母・トシコは看護師や助産師をしていました。
私の1歳下、年子となる妹・よしこが生まれた頃までは、とても穏やかで幸せな日々が流れていました。
しかし、私が3歳のときに両親が離婚しました。
理由は確かなことはわかりませんが、父も母も「相手に何かしてあげたい人」であったことが原因のひとつだったと、後に母から聞きました。でもそのタイプが違うんですね。
父は証券会社の社長であり、とても弁が立ち、相手を喜ばせることに長けていたと聞いています。わがままなことでもなんでもかなえてあげたいと思っているようなタイプ。
母のほうも「人のため」ばかりを考える、まさに慈愛の塊のような人でした。
例えば、父が「何を食べたいか?」 と聞いても、母はもともと質素な人で自分の好みよりも相手に合わせたいと思い、主張はしません。
わがままを言われたい父と、わがままの言えない母。
実際、父はその後、再婚するのですが、そのお相手の方はとても美意識が高く、気が強くわがままなタイプでした。
その方が亡くなったあと、形見分けがされたのですが、高価そうな着物や指輪がたくさんありました。
私はその中で、翡翠などの帯留めを6つもらいました。今日つけている指輪はそのひとつをリメイクしたものです。たぶん、かなり高価なものだと思います。母が持っていたアクセサリーは小さな真珠の指輪ひとつだったのですが…。
妹が生まれて程なくして、父の帰りが遅くなるようになりました。
ある日、まだ1歳の私がぐずって、父があやしても泣きやまないことがあり、イライラした父は私を布団の上にボンと荒っぽく突き落としたそうです。
「あんなことをするような人じゃないのだけれど…」と、母がしてくれたことがあります。ひょっとすると父はその頃、母と、後に再婚する人との間で心が揺れ動いていたのかもしれませんね。そんなもどかしさから、つい感情的になったのでは?と…。
人生は予測もつかないこと、理不尽なことが起こることもあります。苦しいことに直面したときは「受け身」であることが大切です。自分が何かを学ぶために与えられた試練、学びの時間なのだと思うことです。
もちろん当時、私はまだ子どもでしたから、そのように悟っていたわけではありません。今、自分の人生を振り返ってみると、この両親の離婚が私の波乱万丈の人生の始まりだったのかもしれませんね。
子どもは冷静に敏感に状況を見ています
両親が離婚するにあたり、2歳上の兄は跡取りとして父のもとに残り、幼い私と妹は母に引き取られて家を出ました。当時は今よりもずっと離婚した女性への風当たりが強く、母の実家に戻ることもできませんでした。ただ母は大きな病院で看護師をしていたので、実家に戻らずとも生活できたのはよかったと思います。
そして、程なくして父は再婚しました。
いったん母に引き取られた私ですが、もともと大のお兄ちゃん子。母は私たちを引き裂くのはかわいそうだと思ったようで、1年後には私は父のもとに戻りました。いつも「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と慕っていましたから。
本来なら私まで手放すのはつらかったと思いますが、母はその後の私の生活のことまで考えて、私を送り出す決心をしたようです。
父の再婚相手は春治(はるじ)という男性のような名前で、その名の印象通り気性が強い人でした。
日本舞踊を習っていて、座敷でよくおさらいをしていた姿を覚えています。そして春治は父との間に子どもは授からず、兄と私の母親になったのでした。
そんな継母である春治は私たちに言いました。
「本当のお母さんは私で、お乳が出なかったのでトシコさん(実母)に預けていたの。トシコさんは乳母だったのよ。でも、学校のこともあるので戻してもらったの」と。
実は離婚が決まったとき、実母は子ども3人を呼んで居ずまいを正し、優しい顔で、しかしはっきりとした口調で言いました。
「お母さんとお父さんは別々に暮らすことになったの。でもね、どんなことがあってもあなたたちの母は私だけです。これを忘れないでください」と。
このときの姿と言葉が脳裏に焼きついていたため、継母の言うことが噓であることはすぐにわかりました。でも子ども心に、この人は家族になりたいと思っているからこそ言っているのだろうと察して、反論はせずに黙って聞いていました。そしてその後も、それを信じたふりをしていました。そのせいか、継母は厳しい人ではありましたが、彼女なりの方法で私たちをかわいがってくれました。
子どもって大人が思っているよりもずっと、状況を的確に把握しているものです。
よく大人の事情や仕事のことなどを、子どもに隠してなんとかしようとしますよね。でも、いっそのこと子どもに相談してみてください。年齢にもよりますが、驚くほど冷静な判断とアドバイスが返ってくることがあります。子どもを見くびらないことですね(笑)。
私は常に真実は揺るがない、信じるものは自分の中にあるという信念を持っています。おへその下の丹田に、確固たる揺るがない芯があるのです。
ですから今でも、自分の信じるもの以外、他人の意見に影響されず、「くそ意地を張るところがある」とよく人から言われます(笑)。その信念はこのときに身についたような気がします。
実母はというと、やはり私や兄のことが心配だったのでしょう。時々、私たちの学校や家の周辺にこっそり様子を見に来ていました。それを知っていた継母は、私たちと実母が顔を合わせないように工夫していたようです。
大人たちは上手に隠していたつもりかもしれませんが、私は実母の姿を家や学校の近くで何度か目撃して知っていました。でもそれを誰にも言いませんでした。
【お話しいただいた方】
1935年2月24日生まれ。コーセーで長年美容を研究し、1985年初の女性取締役に就任。56歳で起業し「美・ファイン研究所」、59歳で「フロムハンド小林照子メイクアップアカデミー(現フロムハンドメイクアップアカデミー)」を設立。75歳で高校卒業資格と美容の専門技術・知識を習得できる「青山ビューティ学院高等部」を設立し、美のプロフェッショナルの育成に注力する。84歳で設立した女性リーダーを育てる「アマテラスアカデミア」を自らの使命とし、現在はふたつの会社の経営に携わっている。著書に『これはしない、あれはする』(サンマーク出版)、『なりたいようになりなさい』(日本実業出版社)など多数。
イラスト/killdisco 取材・文/山村浩子