誠実に生きていれば必ずチャンスはやってくる
脊椎カリエスにかかり寝たきりになっていた養母は、私が18歳のときに亡くなりました。家族だけの小さな葬儀をすませた後、まもなくして、突然、地元の住職さんが奥さんと一緒に家にやってきました。
そして、「照子さん、うちの息子を許してやってください。時計はすぐに川に捨ててしまったそうです。申し訳ございませんが、これで新しい時計を買ってください」と言いながら、お金が入った封筒を差し出したのです。
私にはまったく身に覚えがなく、「いったいなんのお話ですか?」と、ひとまずその封筒を押し返しました。
お話を伺うと、以前、私が小学校の給仕をしていたときのことです。先生のお手伝いで、子どもたちの染色の授業の準備をしていました。その際に外した腕時計が紛失したのですが、実はそれは住職の息子さんがいたずらして持ち帰り、その後すぐに怖くなって川に捨てたというのです。
私はどこかに置き忘れた自分の落ち度だと思って諦めていました。しかもその時計はもう壊れて動いていなかったので、大して気にもとめていなかったのです。
そうお話しして、「お金などいただくわけにはいかない」と、何度もお断りしました。しかし、先方も「それでは私たちが困ります」の一点張り。封筒が畳の上を何度も行ったり来たりしました。
根負けして封筒を受け取り、開けてみると、そこには想像以上の金額が入っていました。もしかしたら、息子の不祥事を誰かに話されることを恐れて、私たちにこの町から出て行ってほしかったのかもしれません。そのくらいのまとまったお金だったのです。
とても驚きましたが、これがあれば養母をお墓に入れて弔うことができる。早く母の魂を安らかに眠らせてあげたい…という気持ちに切り替わり、謹んでいただくことにしました。
そして、まもなくして養母のお骨を抱いて、養父の故郷である山梨に向かいました。納骨をすませ、久々に東京にいる実兄や継母にも会い、そのとき、両親の離婚後生き別れた実母にもこっそり会うことができました。
実母は実父と別れたあと、幼い妹を連れて再婚。男の子を産みましたが、また離婚して看護師や家政婦をしながら、二人の子どもを抱えて暮らしていたようです。
久しぶりに東京の空気に触れた私は、あの「東京で舞台メイクの勉強をしたい」という気持ちが改めて大きく膨らみました。
そして山形に戻った私は養父にその旨を話したところ、「照子にはこれまで本当に苦労をかけてしまった。これからは照子がやりたいことをやりなさい。手に職をつけるにはまたとないチャンスだ」と快く私の夢の後押しをしてくれました。
家の状況から、一時は不可能と諦めかけたことでしたが、確固たる信念と希望を持ち続ければ必ずかなうのだと、このとき思いました。
実は昔、こんなことがありました。私が16歳のある日のこと、東京から徒歩旅行をしていた実兄の友人が訪ねてきました。そのとき、「東京に戻りたい! 田舎では私の夢はかなえられない」と訴えた私に、「夢は持ち続ければ必ずかなうよ。諦めてはだめだよ」と励ましてくれたのです。
私はこの言葉を今まで人生でたくさんの人に言い続けてきましたが、どうもこのときの兄の友人の発言が元になっていたようです。そのことをつい最近まで忘れていました(笑)。
こうしてようやく夢の種がまかれたのです。それを導いてくれたのは、あの時計事件でいただいたお金があってこそ。まさにその神の手に深く感謝しました。
1955年(昭和30年)、私は雪解けを待たずに、養父を山形に残して単身、東京に向かいました。私が20歳の春でした。
10年後にどうなっていたいかを描いてみる
東京での生活は日暮里にある実母の弟である叔父の家で、居候としてスタートしました。継母の春治は自分の兄である、私の養父を山形に置いて上京することに反対でしたので、最初は彼女に知られないようにしていました。
渋谷にある東京高等美容学校の夜間部に入学し、昼間は一人暮らしの家計費を捻出するために保険の勧誘セールスの仕事に就きました。
断られて当たり前の仕事ですが、根っから明るく前向きな性格なので、断られてもへこたれず、住宅街の個人宅をこまめに訪問しました。そんな頑張りが主婦層に気に入られ、額は小さくても地道に成績を伸ばしていきました。
夜は美容学校の授業だったのですが、ほとんどが髪結いの技術や美容衛生法などの講義ばかり。期待していたお化粧方法の授業はほとんどありませんでした。美容師の国家試験を受けるための基本的な勉強ばかりだったのです。
それでも夜は友だちと歌声喫茶で歌ったり、休みの日には新劇の舞台を見るなどして、「私は芝居のメイクの専門家になる」という希望を捨てませんでした。
これはその頃の私の写真です。
人生には度々、うまくいかないことや思いがけないことが訪れます。
実は十数年前、ラジオ番組でともに出演していたアナウンサーの若い女性ががんになりました。
そんな彼女に私は「10年後に何になっていたいか、考えながら過ごすといいわよ」と声をかけました。多くの人が彼女にかけた言葉は、「ゆっくり治療してね」といったことばかり。私の発した「10年後」という言葉は衝撃的だったようです。
そして目の前の治療のことで頭がいっぱいで、希望の持ちようがなかった彼女は、それまで忘れていた夢を思い出したのだそうです。
10年後の未来に目が向いたことで、治療への不安が消え、焦らずじっくりと療養して、みごとに病気を克服したのです。今ではそのときの夢を実現し大活躍。結婚の報告とともに、お礼のメッセージが届きました。その方は現在、40代後半でしょうか…。
お話は20歳の頃の私に戻ります。
未来の「こうありたい」という思いを抱えながら、2年後、無事に美容学校を卒業しました。しかし、まかれた夢の種はまだまだ発芽する気配はありません。それでも、10年後の夢に向けて、就職へとステップを進めることになります。
【お話しいただいた方】
1935年2月24日生まれ。コーセーで長年美容を研究し、1985年初の女性取締役に就任。56歳で起業し「美・ファイン研究所」、59歳で「フロムハンド小林照子メイクアップアカデミー(現フロムハンドメイクアップアカデミー)」を設立。75歳で高校卒業資格と美容の専門技術・知識を習得できる「青山ビューティ学院高等部」を設立し、美のプロフェッショナルの育成に注力する。84歳で設立した女性リーダーを育てる「アマテラスアカデミア」を自らの使命とし、現在はふたつの会社の経営に携わっている。著書に『これはしない、あれはする』(サンマーク出版)、『なりたいようになりなさい』(日本実業出版社)など多数。
イラスト/killdisco 取材・文/山村浩子