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1958年、コーセー入社。「現場での経験が大きな力に!」【89歳の現役美容家・小林照子さんの半生、そして伝えたいこと】 

美容学校を卒業し、1958年に化粧品メーカー「小林コーセー」の求人広告に応募。難関を突破して入社を果たした小林照子さん。美容部員として地方を回りながら、人にメイクを施す機会を得ます。その後は持ち前の明るさと実際に人の肌に触れる経験により、ぐんぐんとその実力を発揮します。そこで得た大切なものについて伺いました。

笑顔は常に武器になる!

20歳で上京し、1957年、22歳で通った美容学校を卒業。

 

その学校はおもに美容師を育成するところでした。もともと芝居のメイクを学びたいと思っていた私は、卒業後の進路に悩みました。当時はそんなことを教えてくれる学校も就職先もありません。

小林照子さん 第7回 メイクシーン 中用

見習いでも無報酬でもいいから、メイクの技術を学び、それを仕事にしたい。そんな思いがつのり悶々としていたある日、化粧品メーカーの「小林コーセー」が美容指導員を募集する求人広告を目にします。ここならメイクアップの勉強ができるはず! と神さまにすがるような思いで応募しました。

 

私の姓が小林なので、コーセー創業家とつながりがあるように思われるのですが、これはまったくの偶然です。当時は旧姓の花形照子で、その後に結婚する相手がたまたま小林姓だっただけで、親戚でもありません。

実はこの姓に関しては、私がコーセーに在籍している間ずっと、ともすると社内の人からも勘違いされ続けました(笑)。

 

そして、意気揚々と試験会場に出向いて、そこで目に入ってきたのは受験者の長蛇の列! その数、約300人はいたはずです。すごい倍率。しかも、みんな学歴も高そうで、美人ぞろい。背すじを伸ばしてシャキっとスーツを着ている人ばかり。そんな自信満々の人たちの列に並んで、どんどん自信がなくなる私…。

 

筆記試験のあと、数週間にわたって3回の面接が行われました。その最後の社長室での面接で、社長からの「コーセーという会社を知っていましたか?」という質問に、勉強不足だった私は、正直に「知りませんでした」と答えました。

室内は一瞬、静まり返り、私はもうダメだと思ったのですが、その次の瞬間、目の前の社長の後ろの棚に見覚えのある化粧品が並んでいるのが見えました。

 

私は思わず席を立って、「このリーレモンとウルバノン乳液を毎日使っています」と、それらの瓶を指さしながら、にっこりと社長と専務に向かって笑顔を見せました。

「なんだ!   知っていたんじゃないか!?」と、社長も専務も大笑い。その場をなんとか切り抜けたのです。

 

最終面接まで残ったのが30人。そして私は、みごと合格者6人に入ることができました。のちに聞いた話ですが、合格の理由はその無邪気な明るさと笑顔だったそうです。

小林照子さん 第7回 コーセー入社 写真

こうして、私は「小林コーセー」のちの「(株)コーセー」に入社。1958年9月、私が23歳のときです。(写真は入社したばかりの私。社屋の前にて)

 

“肌”に触れること(=触覚)は言葉よりもストレートに心に響く

無事に入社を果たし、私は美容指導員になりました。美容指導員は美容部員を教育する立場ですが、入社して2年間は現場を知るために、一人の美容部員として地方回りをすることになりました。

 

当時の化粧品会社は、自社の商品を売るために特約店制度があり、全国にある特約店で定期的に実演販売を行っていました。私の担当は山口県でした。東京から夜行列車で現地に入り、県内にある25軒の特約店を1日1店舗回ります。移動は電車やバスを使い、宿を転々として約1カ月の出張中、休みはまったくありませんでした。

 

出向いた特約店では1日で何人もメイクをします。スケジュール的にはかなりハードでしたが、私には芝居のメイクを学ぶという目標があります。そんな大変さよりも、現場で人の肌に触れてメイクアップをする喜びに夢中になりました。下の写真は、その頃の私です。

小林照子さん 第7回 メイクシーン

当時のメイクは欠点を修正するのが主流。お手本とするメイク方法に沿って、肌はこの色、眉の形はこれ、アイカラーや口紅も指定の色を使い、理想とする美人顔に近づけるように仕上げます。私はいつもその考えに不満を持っていました。人の顔には必ずよいところがあります。その魅力を生かしたメイクをするべきだと。

 

眉毛の形、アイシャドウの色や入れ方で人の顔は大きく変わります。

 

例えば、かわいらしい顔立ちをしているのなら、それを生かしたメイクがあるはず。その思いで、持ち前の笑顔を振りまいて、一人一人その人の顔を生かすメイクを丁寧に行いました。それが評判となり、私の担当したエリアの売り上げはどんどん上がっていきました。

 

私はもともと化粧品を売ることにまったく興味はなかったのですが、結果的に私の評価は上がりました。一方でほかの同期たちは、仕事の過酷さや、「私は売り子になる気はない」といった理由で次々にやめていき、結局2年後に残ったのは私一人でした。

 

 

現場で確信を持ったことがあります。それは皮膚という臓器はすごい力を持っているということです。肌に触れることで、思いが言葉よりもストレートに相手の心に響き、互いの距離を縮めてくれるのです。

 

実際に接したお客さまは、驚くほど心を開いてくださいます。夫のこと、子どものこと、嫁姑の話など、悩み事などを話し出すのです。もちろん、私はお話を伺って相槌を打つだけで、アドバイスなどはできません。ただ、丁寧に顔をマッサージしてメイクをして差し上げるだけなのですが…。

 

少しずつ絆が築かれたことで、販売数を伸ばすことができたのだと思います。

(下は、同じ部署の社員と撮った記念写真です)

小林照子さん 第7回 入社時 ほか社員と

こうして、社内でも私のメイクアップは評判となり、メイク方法を変えた人たちから、お見合いが成功した、結婚ができた、家族の仲がよくなったといった報告が相次いだことから、「ハッピーメイク」という名前がつきました。

 

この2年間の現場での経験は、当時、新人社員だった私、そしてその後ヘアメイクアーティストになる私にとって、それはそれは大きな財産になりました。

 

 

【お話しいただいた方】

小林照子
小林照子さん
美容研究家 メイクアップアーティスト
公式サイトを見る
Twitter Instagram

1935年2月24日生まれ。コーセーで長年美容を研究し、1985年初の女性取締役に就任。56歳で起業し「美・ファイン研究所」、59歳で「フロムハンド小林照子メイクアップアカデミー(現フロムハンドメイクアップアカデミー)」を設立。75歳で高校卒業資格と美容の専門技術・知識を習得できる「青山ビューティ学院高等部」を設立し、美のプロフェッショナルの育成に注力する。84歳で設立した女性リーダーを育てる「アマテラスアカデミア」を自らの使命とし、現在はふたつの会社の経営に携わっている。著書に『これはしない、あれはする』(サンマーク出版)、『なりたいようになりなさい』(日本実業出版社)など多数。

 

 

 

イラスト/killdisco 取材・文/山村浩子

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