綱渡り子育てだけど、仕事と子どもへ100%の愛情を注ぐ
1958年、23歳で化粧品会社の「小林コーセー」に入社し、美容指導員の研修として現場を知るために美容部員を2年こなしたあと、私は本社教育課に配属されました。ここでもその人のチャームポイントを生かしたメイクを施し、私のメイクは評判になって、ポスターの撮影のメイクを任されるなど、活躍範囲が広がっていきました。
こうして仕事に夢中になっていた私ですが、入社4年後の1962年、27歳で結婚しました。
当時は、女性は学校を出たら家事手伝いをしながら、22歳~24歳くらいで結婚して、良妻賢母を目指すのが幸せとされていました。仕事を持ったとしても、結婚までの腰かけで「寿退社」が当たり前の時代です。
私は幼い頃の両親の記憶から、「大好きな人とは結婚しない」と心に決めていました。実母が夕暮れ時に父を待ちながら見せた寂しそうな顔が幼心にも忘れられなかったこと。そしてのちに、両親の離婚の理由を「お互いに相手を思いやりすぎて息苦しくなった」と聞いていたのです。私も一生懸命に人を好きになると、両親のようになってしまうと思ったのです。
その前に、仕事が忙しく楽しすぎて、大恋愛をする時間も機会もなく、結婚願望もありませんでした。
そんな私ですが、「結婚してもいいかな」と思う人が現れました。美容学校に通い始めた頃に居候をしていた叔父の奥さんの弟。血のつながりのない親戚で、5歳年上の小林常浩(つねひろ)でした。
叔父は自分の会社を持っていて、常浩もその社員でした。実は私を自分の会社に引き抜きたいという下心があったようです。ある意味の「政略結婚」ですね(笑)。叔父は、私が結婚をしたら今の会社を辞めると思っていたのです。
こうして私は小林照子になりました。しかし、叔父の期待を裏切り、退職はしませんでした。
当時の社名は「小林コーセー」。偶然とはいえ、最初の頃は社名と同じ小林姓を名乗るのが恥ずかしいと思い、しばらく旧姓の花形照子で通していました。
しかし、2年後の沖縄出張をきっかけに旧姓をやめることに。その頃沖縄は米国民政府の統治下にあり、行くのにはパスポートが必要だったのです。まだ独身時代の名前をキャリアネームにする習慣のない時代です。現地のスタッフが混乱しないようにとの配慮でした。
そしてその2年後の1964年、29歳で女の子を出産しました。夫の名から一文字「浩」をとって「浩美(ひろみ)」と名づけました。
夫はお人好しでとても優しかったのですが、私が仕事を続けることには反対でした。
「いつ辞めるんだ!」が口癖。それでも私は辞める気はまったくなく、子育ても家事もほとんど一人で背負いました。
当時の会社にとって、子育て中の女性の社員は私が初めてです。「やはり子どもがいる女性は使い物にならない」と思われたくない、仕事仲間に迷惑をかけたくないという一心で、仕事は100%こなしました。
子育ても、まずは子どもの健康と命を守ることが第一。さらに、寂しい思いをさせないように、家にいるときは短い時間でも絵本を読んだり、話を聞いてあげたり、抱き締めたりと100%の愛情を注ぎました。
一日の時間は限られています。外せないものに優先順位をつけてやりくりしました。
その結果、多少部屋が散らかっていても、洗濯物がたまっていても死にはしないと判断。掃除や洗濯などの家事、子どもが寝てからの仕事は手抜きをすることにしました。
ようやく見つけて引っ越しまでした保育園も、終わるのが18時なので、そのあとの時間に浩美を預かってくれる場所が必要です。友人や知人などを数人確保して、毎日、今日は誰に預けるかをやりくりしていました。まさに綱渡りの育児です! 浩美が初めてしゃべった意味のある言葉が、「どこへあずけようか」という私の口癖だったほどです(笑)。
悪いことが起きるときは、方向転換を考えるタイミング!
仕事と育児で200%の力を注いで約1年。浩美が1歳になる直前のことです。私は仕事で香港に1カ月の出張に出ることになりました。もちろん、夫をはじめ、まわりの人は大反対です。
香港に支社を作るプロジェクトに、現地でスタッフを教育する任務だったのです。それができるのは私しかいないと思いました。
その頃には、夫も育児を少しは手伝ってくれるようになっていましたが、1カ月も夫一人では厳しいだろうということ、浩美が不安に思わないようにと、実母に預けることにしました。そのために、我が家の近くに一軒家を借りて実母に住んでもらい、浩美を日中預かってもらうよう準備万端整えました。実は、実母とは私が上京して以降、交流していたのです。
最後まで周囲の猛反対を受けながらの香港出張。いざ出発の日、空港に向かう途中で私たちは大事故に遭いました。夫が運転する車にトラックが突っ込んできたのです。車は大破し、私と浩美はなんとか無事だったのですが、夫と同乗していた実妹が瀕死の重傷を負いました。
夫と実妹は別々の病院に運ばれ、ちょうどその頃養父も入院していたので、今日は夫が危篤、明日は実妹が危篤といった状況で、3つの病院を駆け回る日々を送りました。人生でこれほどつらいときはありませんでした。
この事故で、結果的に会社に大きな迷惑をかけてしまいました。それまで私にとって仕事は、メイクアップアーティストとしてのキャリアとしか思っていなかったのですが、組織のありがたさを痛感し、今後は会社のために全力を尽くそうと決意しました。
これを契機に悟ったことがあります。「悪いことが起こるときは、自分の行いや人生を見直す時期なのだ」と。それまで「この仕事は私でないとできない」と思っていたことでも、「チームワーク」を第一に考えるようになりました。
子育てのほうはというと…、相変わらず綱渡りの育児を続け、浩美が小学校に上がる頃には“鍵っ子”の状態でした。私は家で彼女の帰りを出迎えることができませんでしたが、それでも冷蔵庫に「お帰り~! 今日のおやつは〇〇です」という紙を、毎朝の出勤前に貼ることを欠かしませんでした。
浩美がまだ低学年の頃は、一人の時間が長くなりそうなときにシッターさんを手配することがありました。そんなときも、必ず「お帰り~」という言葉だけはかけてほしいとお願いしました。どんな形でも、「お帰り~」で出迎えることは私の小さなこだわりでした。
下の写真は、当時仲良くしていた友達家族と一緒に撮った一枚。左側の母娘が私と浩美です。
子どもにとって決して立派な母親ではなかったと思いますが、ある日、浩美からこんな話を聞いたことがあります。
手作りおやつが当たり前のような完璧なお母さんを持つ友達から、「浩美ちゃんの家はいいな~」とうらやましがられたというのです。理由を聞くと、「お母さんから口うるさいことを言われないでしょ?」とのこと(笑)。
そのためなのか、いつの頃からか我が家には、浩美の友達が集まるようになっていました。
【お話しいただいた方】
1935年2月24日生まれ。コーセーで長年美容を研究し、1985年初の女性取締役に就任。56歳で起業し「美・ファイン研究所」、59歳で「フロムハンド小林照子メイクアップアカデミー(現フロムハンドメイクアップアカデミー)」を設立。75歳で高校卒業資格と美容の専門技術・知識を習得できる「青山ビューティ学院高等部」を設立し、美のプロフェッショナルの育成に注力する。84歳で設立した女性リーダーを育てる「アマテラスアカデミア」を自らの使命とし、現在はふたつの会社の経営に携わっている。著書に『これはしない、あれはする』(サンマーク出版)、『なりたいようになりなさい』(日本実業出版社)など多数。
イラスト/killdisco 取材・文/山村浩子