時代を見据えたメイクキャンペーンが大成功
私は娘、浩美の子育てをしながらも、仕事の手を抜くことはしませんでした。特に大事故に巻き込まれて会社に迷惑をかけてしまった一件から、いっそう感謝の気持ちで仕事に打ち込みました。
※大事故については、第8回参照。
1965年、私が30歳のときにマーケティング部に新設された「美容研究室」に配属されました。
時代はテレビの民間放送局ができて、テレビコマーシャルを打つなど情報の傾向が変化し始めていました。被写体となる俳優のほかに、新鮮な印象を持つハーフのモデルが続々と登場。団塊の世代の最大人口層が18歳になろうとしている頃でした。
そのため、各社はコンセプトを決めてキャンペーンを張り、ポスターや雑誌への掲載、カタログなどを作成して広告していきます。写真はキャンペーンイベントのひとコマ。舞台でお話をしているのが私です。
そんな時代の中、1966年に提案した「クッキールック」が話題になりました。
それまでの日本では、白い肌に赤い口紅が主流でした。しかし、ロンドンやニューヨークではヒッピーやサイケデリックアートなどが流行し始めている時代。その後、日本でもイギリスのモデル、ツイッギーが話題となりミニスカートが大流行しました。
「クッキールック」はこうした時代を先取りして、小麦色の肌にアイメイクで目元を強調し、色みの薄いベージュの口紅で仕上げるローコントラストのメイクで、ボーイッシュでかわいらしい女性をイメージしました。
クッキーはお菓子のクッキーです。当時は洋風のおしゃれな食べ物の象徴でした。翌年は「ココルック」、次は「タムタムルック」を発表。ココはココナッツのココ、タムタムは太鼓の音をイメージしています。どんどん野生化していくイメージですね(笑)。
1965年に「 オーリック コンパクトファンデーション」を発売して以来、次々と画期的なファンデーションを開発しており、私もこれに力を入れていました。
1974年の水のいらないサマーリキッドファンデーション、1976年には世界初のファンデーションとパウダーをひとつにしたパウダーファンデーション、1979年には水あり・水なし両用の2ウェイケーキを発売。
女性のライフスタイルの変化に合わせて、次々と素肌づくりの新しい習慣を提案していき、そののちに「ファンデーションのコーセー」と言われるまでになりました。
新しい商品を開発するには、2年、3年先を見越して立案する必要があります。私が常に考えていたのは、その年に18~20歳になるおしゃれ解禁層を含め、いろいろな女性像を想定して、その人の2~3年先をイメージすることです。そして、その女性のライフスタイルの中で合理的なスキンケアやメイクアップを考えていきます。
女性の社会進出が進み、忙しい女性たちは「少しでも簡単に素早くスキンケアやメイクをしたい」、「軽くて小さなコンパクトがあると便利かも」、「スポーツするときもメイクはしていたい」といったふうに必要なものが具体化していきます。
女性が求めるニーズを先取りしていく作業、そしてそれを実現していく過程はとても楽しいものでした。
「絶対に売れない」と言われた世界初の美容液が大ヒット! 諦めない気持ちが大事
また、私は1975年に美容液の開発もしました。
当時の化粧品はクレンジング、洗顔料、化粧水、乳液、クリームなど、5~6品をシリーズで販売するのが主流でした。丁寧に時間をかけてスキンケアをする女性が多くいることは、とてもうれしいことですが、一方、私のようにスキンケアは少しでも簡単にすませたいというニーズを先取りして、それに応える効果が高く時短になる美容液を作りたかったのです。
当然、社内で猛反対を受けました。それでも私は諦めず、立ちはだかる男性上司や部長の反対をひとつひとつ説得しながら、「化粧液」という種類別名称で発売にこぎつけました。最初は多くの人が求めやすいリーズナブルな価格をイメージしていたのですが、30mLで5,000円という結構強気な価格になってしまいました。
上司たちは「売れるわけがない」と言っていましたが、これが大ヒットになりました。すぐに売り切れになり、増産のうれしい悲鳴に。部長からも「よくこんなオイルが売れたな」と言われましたが、思わず「オイルではありません!」とくってかかったことをよく覚えています。
そののち、1979年に開発当初にイメージした通りの「エスプリーク モイスチュアエッセンス」という名前で、80mLで4,000円のリニューアル版を発売。これは今でも売られているロングセラーです。
私には舞台のメイクアップアーティストになるという夢がありました。そのメイクに対する熱い思いを商品開発に乗せていったことが、次々に成功することになったのではないかと思っています。
与えられた仕事でも、そこに自分の夢を乗せていけば120%の実力になります。
大げさに考える必要はなく、例えば、会議の部屋を準備するという任務を受けたら、女性ならではの清潔で爽やかな部屋の匂いとか、かわいいひと口菓子をお茶と一緒に出すといった工夫でもいいのです。与えられた仕事も、イヤイヤやるのではなく、楽しみを見出して前向きに取り組むことが大事なのです。
嫉妬や意地悪は軽く流し、やるべきことを貫く
30歳からマーケティング部門に抜擢され、美容研究から美容研究室、美容研究部、総合美容研究所へと組織を拡大しつつ、ソフト部門を任されてきました。
そして、1983年、48歳のときに念願のプロを育成する「ザ・ベスト・メイキャップスクール」を社内に開校し、総合美容研究所長と校長を兼任しました。
プロ育成のスクールは、会社を辞めて起業する予定でしたが、会社からの引き止めがあり、会社内で開校することになりました。
私がイメージしたスクールは、生徒が20人ほどで、数百時間の授業、授業料60万円くらいを想定していました。プロ育成なので、ほかの化粧品会社の人でも受けつけるといった本格的なものでした。
会社側はその案を簡単に承認するわけがありません。もっと簡易なものと考えていて、ここでも意見が合わず、結局実現するのに2~3年かかりました。
当時は雑誌やテレビ、広告などでメイクアップアーティストの需要が増えていたので、スクールは順調に生徒を増やしていきました。写真はポスター撮影時のメイク風景で、左端が私です。
そして、スクール開校後の1985 年に取締役へという話がきました。
「取締役だか、戸締り役だか知りませんが、どういう仕事をするのか私にはわからないので」と言って、いったんは辞退しました。今までメイクアップのスペシャリストを目指してきただけで、人を管理する勉強など一切していません。とても務まるとは思えなかったのです。
しかし最終的に、「次世代の人たちの道しるべになるならば」と引き受けました。私が50歳のときです。
当時私は部長職(総合美容研究所長)で、社内的には副参与という立場でした。そこから参与を経験せずに飛び級で取締役になったのです。この人事はほかの男性社員からの反感を買い、時には意地悪をされました。
役員会の朝食会に初めて行ったときのことです。私は伝えられた8時の少し前に会場に着いたのですが、そのときすでに朝食を終えていました。本来は8時スタートでしたが、会長がいつも早く来るので、何年も前から7時には始まる慣習になっていたことを、私には伝えられなかったのです。
「やられた」と思いました。私にその時間を伝えた人は、もし私が役員にならなかったらその人がなっていただろうといわれていました。完全に私の思慮不足でした。
そういった意地悪はほかにもありましたが、そのつど、嫉妬や意地悪に大騒ぎせずに、すっとかわして取り合わない…を通しました。
こうして、メイクアップアーティストである私は、総合美容研究所長、校長、取締役の3役の仕事をこなし、6年が過ぎた1991年、私が56歳のときに役員を辞任し、コーセーを退社しました。
【お話しいただいた方】
1935年2月24日生まれ。コーセーで長年美容を研究し、1985年初の女性取締役に就任。56歳で起業し「美・ファイン研究所」、59歳で「フロムハンド小林照子メイクアップアカデミー(現フロムハンドメイクアップアカデミー)」を設立。75歳で高校卒業資格と美容の専門技術・知識を習得できる「青山ビューティ学院高等部」を設立し、美のプロフェッショナルの育成に注力する。84歳で設立した女性リーダーを育てる「アマテラスアカデミア」を自らの使命とし、現在はふたつの会社の経営に携わっている。著書に『これはしない、あれはする』(サンマーク出版)、『なりたいようになりなさい』(日本実業出版社)など多数。
イラスト/killdisco 取材・文/山村浩子