45歳でアルツハイマー病と診断され、病気を公表し、認知症の啓発活動を続ける藤田和子さん。現在、夫と愛犬ココちゃんと鳥取市で暮らす、一般社団法人日本認知症本人ワーキンググループ代表理事の藤田和子さんにリモートで取材しました。
お話を伺ったのは
藤田和子さん
Kazuko Fujita
1961年、鳥取市生まれ。認知症の義母を9年間介護。看護師として勤務中の2007年に若年性アルツハイマー病と診断される。当事者の会を立ち上げ、認知症の人だけでなく、誰もが生きやすい社会を目指し活動中。一般社団法人日本認知症本人ワーキンググループ代表理事。3女の母。著書に『認知症になってもだいじょうぶ! そんな社会を創っていこうよ』(徳間書店)
朝食べたコーヒーゼリーが思い出せなくて…
「ピアスはね、認知症になってからあけたんです。外国のおばあちゃんが素敵なピアスをしていたのを見て真似したの。来年、還暦を迎えたらグレーヘアにしたくて」
ひとしきりおしゃれトークで盛り上がったあと、「最近、人の話を聞くのが不得意になってきて、つい自分の好きなことをしゃべっちゃう」と笑う藤田和子さん。
フェミニンな装いにさりげないピアス。陶器のような白い肌に整った顔立ち。Zoom越しでも際立つ美しさに思わず見とれてしまいます。
「認知症になっても、元気もキレイもあきらめないでやれると思ったら、元気になりません? けっこう気を使ってるんですよ(笑)」
↑ 娘と一緒に買った花の手作りピアス。インスタにも即UP!
兆候が現れたのは2006年。本が読み進められないなあというぼんやりとした違和感から始まり、
友人との約束や会議を忘れたり、同じことを何回も言うと娘に指摘されたり。年が明け、朝食べたコーヒーゼリーのことを思い出せず、記憶の異常を自覚。
激しい疲労や不眠、頭痛、めまいが続き、ストレス性の記憶障害を疑い心療内科を受診したところ、脳の検査をすすめられ総合病院の脳神経内科へ。「初期の若年性アルツハイマー病と思われる」と告げられました。
「病気の説明も治療方針も示されず、経過観察になって。当時私は45歳で、これからどうなっていくのか急に不安が湧いてきました。認知症の義母を9年間介護した経験もあったので、そのときの義母の様子を未来の自分と重ね合わせ、いつまで自分らしくいられるんだろうと落ち込みました」
つらい症状は治まらず、看護師の仕事も辞職。心身ともに苦しい1年を過ごし、再検査をすることに。最初の医師の対応に疑問を感じた藤田和子さんは、鳥取大学医学部附属病院の認知症専門医を受診。あらゆる病気を視野に入れたさまざまな検査ののちに、若年性アルツハイマー病と診断されました。
「将来への不安も感じたけれど、自分の体に何が起きているのかはっきりして、ほっとしました。“今は治せないけれど、薬も開発されてきているし、よい状態を保つために一緒に頑張りましょう”という先生の言葉が心強かったです」
ごく少量から服薬を始め、様子を見ながら少しずつ増量。飲み心地に違和感を感じたら、すぐに医師に伝えて処方を調整。きめ細かな対応で大きな副作用もなく、症状の改善を実感できたそう。
「薬に体が慣れてきた頃、日常生活の混乱が減って生活のしやすさを感じました。若年性アルツハイマー病はどんどん進行するというイメージがありますが、それは手立てがあることも知らされず、うつ病など二次障害で悪化している場合が多いと思うんです。違和感を感じたら、受診をためらわないことがとても大事だと思います」
今までのやり方で難しくなってきたことは、別のやり方を工夫します。料理好きの藤田和子さんは、ガスコンロをオール電化に替え、タイマーをフル活用しながら、家族の食事を毎日作り続けています。
「一度に複数のことをすると混乱するので、一品一品作ります。集中するとひどく疲れるので、片づけとゴミ出しは夫の役目。自然と分担するようになりました。料理だけに集中できるので楽しいです。といっても中身はね、だんだんしょぼくなっているわけですよ。ちょっと寂しい食卓ではあるんですが、文句も言われず、いまだにいばっていられるんですけど(笑)」
診断後も家族との関係性は変わらず。「でも、うちの家族はけっこうスパルタ」だそう!?
「夫も3人の娘たちも、先回りしてやってくれることは全然なくて。最初の頃はもっといたわってよと思ったけど、“でもお母さん、やりたいようにやりたいでしょ”って。まあ、確かにそうなの(笑)」
文字が書きづらくなったり、動作が遅くなっていたり、ふとしたときに衰えを感じるという藤田和子さん。どうにも不安になり、家族の前で突然ワッと爆発することも。
「そんなときも話を聞いてくれて、なぜそうなったか話し合ったり。どんな私もそのまま認めてくれる。ありがたいなと思います」
認知症になってもいい出会いがたくさんあります
藤田和子さんには家族以外にも、頼れる人がたくさんいます。その多くは、認知症の啓発活動を通じてつながった仲間たちです。
認知症は「介護の問題」としてのみとらえられ、本人の気持ちがないがしろにされている状況に気づいた藤田和子さんは、当事者が自分の思いを発信していく重要性を痛感。10年には病気を公表し、のちに鳥取で「若年性認知症問題にとりくむ会・クローバー」を発足しました。
↑ 2020年1月20日に行われた認知症本人大使「希望大使」任命式で、日本認知症本人ワーキンググループの代表理事として堂々と挨拶する藤田さん。希望に輝く晴れ晴れとした笑顔!
「街中の喫茶店で身近な人たちに、自分の身に起きていること、感じた社会との違和感を話すことから始めて。無視されたり、心ない視線を受けたり、認知症じゃないと言われたりもしましたが、少しずつ賛同者を増やしていき、その輪が全国にも広がっていきました」
認知症の人が希望と尊厳を持って暮らせる地域づくりを目標に、14年、仲間とともに設立した「日本認知症ワーキンググループ」は、3年後に一般社団法人「日本認知症本人ワーキンググループ(JDWG)」に発展(連載後半でご紹介します)。
↑ 橋本岳厚生労働副大臣(当時)から、ともに任命を受けた仲間と「希望大使」の任命状を授与。藤田さんら5名の希望大使たちは、認知症に関する理解を社会へ促すための啓発活動を精力的に行なっています
「あきらめないで自分の思いを伝え続けてきたら、いっぱいいい出会いがある。それが私の元気のもと。幸福だなって思います。だって一人では頑張れないもの。でも、それは認知症でなくても同じですよね。認知症の人もそうでない人も、自分らしく楽しく生きられる、そんな社会をみんなで一緒に考えていきたいです」
写真(花)/高橋ヨーコ 取材・原文/石丸久美子