OurAgeの人気連載「ハッピー女神プロジェクト」を執筆してくださっているオーガニックのスペシャリスト、吉川千明さんのインタビュー、後編です。
吉川千明(よしかわちあき)/美容家、サスティナブルライフ水先案内人
1959年生まれ。自然や植物の力に着目し、オーガニックコスメをはじめ、スパ、漢方、食にいたるまで、ナチュラルで美しいライフスタイルを提案。オーガニックビューティの第一人者として知られる
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1997年、オーストラリアを代表するオーガニックアロマブランド、「ジュリーク」ショップ青山がいよいよオープンします。契約からオープンまで、想像を絶する苦労があったといいます。
「佃に出したプライベートサロンが大当たりしておかげさまで大人気になり、その時に扱っていたジュリークの商品が本当によく売れたんです。『これは専門のショップを出した方がいいな、ジュリークのお店があったら大ブレークするだろうな』と直感しました。そこで正式に、オーストラリアのアデレードにあるジュリークの本社に申し入れたところOKがでて、日本で初めてのジュリークの旗艦店を青山に出すことになりました。
ところが、家具はすべてオーストラリアから空輸されたものを使わなくてはいけない、全製品、店いっぱい買わないといけないなど、いろいろ桁違いなことが起こりました。でも、もうやるしかない! と腹をくくりましたね。誰かに資本参加してもらっているわけでも出資してもらっているわけでもありません。ほぼ個人で100%出資。以後、このブランドを広げなくてはと白金台、日本橋、新宿伊勢丹、とジュリークのお店を出していきました」
吉川さんは「直感」という言葉を使いましたが、単に勘がいいわけではありません。現場で見て、お客様の様子をよく見ていたから、確信できたのです。
同時に経営していたエステサロン「ビオパスカル」は、当時「予約の取れないサロン」として本当に大人気でしたが、その間も、吉川さんは美容に関してあらゆる角度から勉強も続けていました。エステのディプロマ(卒業証明書、専門知識の所有者であることを保証するもの)はもちろん、アロマテラピー、メディカルアロマ、植物療法、調香、マクロビオティック、そして漢方も。
「フランスの植物療法を勉強していた頃かな。テキストに出てくる西洋のハーブが日本にないものが多かったんです。その勉強が何か机上のことに思われて。何かもっと日本の地にあった植物療法があるのではないかと考えていたとき『あ、漢方がある!』と気がつきました。それで、漢方を勉強するとすごく面白くて。OurAgeで漢方の記事を連載している樫出さんは当時から知り合いでしたが、仕事を一緒にすることがあり、彼女のカウンセリングを隣で見ていて、『人は薬で治るのではなく、きっかけをつかみ、患者さん自身が自分で治っていく』ことを確信したんです。それはエステサロンをやってる中で感じたことと同じ。
それで、鍼やアロマも融合した女性専用の漢方薬局を作りたくて、銀座並木通りに『若草漢方薬局』をオープンさせました。誰かの資本ではなく、自分たちだけで銀座に出すというのは大変なことだったわけですが、なぜ銀座だったかというと、私がお世話になっている対馬ルリ子先生のクリニックの近くがいいと思ったから。私は漢方だけに偏りたくなくて、西洋医療を行う対馬先生のクリニックがあるその場所で両方を補完できたらいいな、と思ったんです。樫出さんには初代店長になっていただきました。誰に資本投下資本参入してもらうわけでもなく、自力ですから、常に背水の陣ね」
この薬局も大人気となり、オープン前から半年先まで予約がいっぱい。エステサロンのビオパスカルとジュリークショップも同時に経営。しかし、好調なお店とは裏腹に、この頃から吉川さんは更年期がつらい時期に入り、仕事と家庭の狭間で心身ともに疲弊していたそうです。
「リーマンショックって、美容関連の記事ではなかなか見ない単語だと思いますが、2008年にやって来たあれは、私の事業にも大きな打撃を与えました。私が美容の仕事で得た利益もマンパワーも漢方薬局に投じ、美容の世界の私が、『漢方』という『薬』の世界に入り、奮闘していたわけです。決して業績が悪かったわけではなかったのですが、子どもの頃の経験(家業の倒産)でかなり私は怖がりになっていたと思います。と同時に、更年期でとにかく体調が悪い。外に向けては会社の顔としてメディアにもでるけど、家ではちゃんとしないと家族に申し訳ないという気持ちで、やりすぎてたのかな。家庭もうまくいかなくて。このままだと鬱になるかも、というところまで追い込まれて。今、思うと2度と作れないようなよい漢方薬局でしたが、薬局は閉めることにしたんです。今思えば、辞めなくてもよかったかもしれません。更年期の被害妄想! だったのかもしれませんね」
結局、「在庫も持たない、人も雇わない」と仕事をすべてリセットし、2008年にオーガニックコスメのPRルーム「ビオ代官山」を設立します。
「大好きな美容の世界で仕事を始め、自分で施術をして、化粧品を選んで、スタッフを教育して。人もよく育ったし、売り上げも伸びました。お店も出して会社は大きくなっていきましたが、私の体調は悪かったし、大きな病気にはならなかったけれど、小さい病気をたびたび繰り返しました。ストレスチェックを受けてみたら、深刻度は5段階中5! 夫と始めた会社だったけれど、船に船頭は二人は要らなかったんですね。結局、ビオパスカルは閉じ、ジュリークは夫が引き継ぎました。そして、まだ離婚はしていませんが、すべてを離れ、自分だけの仕事をスタートさせることに決めました。在庫も持たない、人も雇わない。それで2008年にオーガニックコスメのPRオフィス『ビオ代官山』を立ち上げました。今までやってきたノウハウを総動員して、コンサルやセミナーをしたりする会社です」
自ら機会をつくり、機会によって自らを作る
リクルートでアルバイトをしていたときに出会ったこの言葉。自分に投資し続けて、最高の学びを得てきたという吉川さん。
「この言葉がインプットされてよかったと思っています。自分に未来がないと思うより、やればできる、って思えるじゃないですか。私はやりたいことは『絶対にやる』と思うし、あえて機会を作って、そこに自分を放り込んじゃう。勉強も同じです。『時間を見つけて少しずつやろう』なんて思ってたらいつまでたってもやらない。だから私は自分に最大限投資して、学びの機会をたくさん得てきました。大変でしたよ、最近とった、メノポーズカウンセラーやオイルソムリエの試験など、朝からカフェに行ってテキストにトレーシングペーパー貼って黒く塗りつぶしたり、お風呂の中でも勉強したり。でも、最高の知識を得たいという欲がすごかったんだと思います。資格マニアでは全くないの(笑)。でも気がついたら、いろいろとっていました」
今もその学びは続き、メノポーズカウンセラーの資格も取ったそうです。
「更年期は辛かったけど、こうして仕事にも結びついてるから結果としてよかったのかな(笑)。37歳からプレ更年期が始まって52歳の閉経まで15年。長かった。当時、日本で解禁されたばかりの低用量ピルを服用して、なんとか改善していましたが、40代半ばを過ぎると肌は乾燥してボロボロになり、喉も目も、口もデリケートゾーンも潤い不足。冷えはますます深刻になって、頻尿にも悩まされました。中耳炎とヘルペスも頻繁に繰り返し。本当に辛かった。その最中に漢方薬局を立ち上げて畳んで離婚して。今思うと壮絶な時期でしたね。」
吉川さんが勉強し続けるのは、自身が苦労をしたからこそ、“正しい情報”をきちんと伝えたいという想いがあるのだそうです。
「自分が悩んでいるときに、間違った情報に惑わされると余計に辛くなります。だから私は『このジャンルに関して、私は間違いなく専門家で、みんなを安全なところに誘導しますよ』と、女性の皆さんのお役に立てることを、この先のライフワークにしたい。だから学ぶことはこの先も続くでしょうね。ビジネス書も読むようにしてるんですよ。ほら、おばさんだからってITに弱いとかダメでしょ(笑)」
吉川さんはご自身を「女性の健康応援団」だと言います。吉川さんの人生にギュッと凝縮された“本物の知恵”を、これからもOurAgeをはじめ、さまざまな場所で、たくさん発信してくださるそうです。
吉川千明さんの連載「ハッピー女神プロジェクト」はこちらから
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女性の心と体のケアについて語っていますので、ぜひ、これも参考になさってください。
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撮影/山田英博 構成/島田ゆかり