定年になって脳トレしたって間に合わない!?
50代の編集者である私のところには、どこでどうかぎつけるのか、信託銀行や保険会社からの勧誘プランがよく届く。会社勤めでそれなりに山あり谷ありの人生を乗り切ってきた。夫も私も、確かに定年は目の前だ。パンフレットにはシニア世代の安心と実りのために! などとあるが、本当のところ、介護の始まった自分たちの親世代や少し前に年金生活に入った先輩世代を見ていると、それだけで大丈夫なんだろうかと思ってしまう。
ライフプランの見直しも大事だし、資産運用もやらなきゃとは思う。だけど何より一番必要なのは、リタイアしたあとも、自分の頭の働きを健康を保つことなんじゃないか。そうでなきゃ、結局、この先暮らしをどうしようという判断も、大事なお金をどこに投資するという意思決定もできないじゃないか。
料理をしなくなり、直前の会話を忘れ、同じことを何回も尋ねるようになった母。退職後、いつの間にか人が変わったように怒りっぽくなって奥さんを困らせているという元上司の噂。私もそうなるのか。夫もそうなってしまうんだろうか。定年がその人の心身に影響を与える大きな節目であることはよくわかっている。でも、年を取ればみな認知症になるんだろうか。今までと変わらず、年齢を重ねても、脳がずっと冴えた状態をキープするには、いったいどうすればいいんだろう。
ズバリそこに答えをくれたのが、1万人以上の脳疾患を診てきた築山節医師著『定年認知症にならない脳が冴える新17の習慣』という本だ。
あなたは、いつ定年を迎えますか。
この先、認知症になるのではと心配ですか。
年を取れば、誰でも認知症になると考えていますか。
これはその本の冒頭の言葉。どこかしらいつも抱えているわたし自身の不安を真正面から言い当てられた気がして、どきりとした。
さらにページをめくると定年認知症のリスクチェックテストがある。これをやってみると、私はそうとう危険度が高そうだ。
チェックリストはこちらの記事に。
ぞっとした。定年になっておもむろに脳トレしたって間に合わないじゃないか。本にある脳へのリスクチェックで半分以上✖がつくこの生活、もしかしてかなりだめなんじゃないだろうか。ひょっとして知らないうちに、わたしの脳もすでに枯れ始めているんじゃないかしら。
そんなわけで、50代のよれよれ女性編集者(つまりわたし)は、もっと詳しくお話をうかがいたいのですがとすぐに先生に取材をお願いして、新刊を片手にクリニックを訪れた。本当は、定年認知症のチェックテストの突きつけた危機感に、自分のことを診てほしくて行くようなものだったと白状しておく。
診察室で開口一番、わたしを見るなり、先生がたずねたことは……。
50代編集者、築山医師に不摂生な生活を見破られる
公益財団法人河野臨床医学研究所北品川クリニック所長の築山節(つきやま たかし)先生
クリニックで築山先生に会ったとき、開口一番、こう質問された。
「今朝は何時に起きましたか。昨日は何時に寝ましたか」
ええと、朝7時くらいです。眠ったのは2時くらい。
「昨日はどうでしたか。何時に寝て何時に起きたか覚えていますか」
はい。夜に会合があり、帰宅していろいろためていた家事もこなしてから寝たので(これウソ。本当は映画のDVDを見始めてついついやめられなくなった)、3時くらいに就寝して、起床は8時半くらいだったと思います。
にこにこと話を聞いて、先生は言った。
「お仕事がら、きっと不規則でいつも寝不足ではないかと思いましたので、まず睡眠習慣についてお尋ねしました」
うわー、ばれてる。それもそのはず、先生は長年、製造業、サービス業、マスコミ業界も含め、いろいろな会社の産業医も務めているのだという。診察室の中だけでなく、企業で働く人々をよく知っている。同じような人がいっぱいいそうですね、と、うまくごまかしたつもりのわたしに、先生は静かに言った。
「夜は寝ないと脳が壊れますよ」
寝ないと、脳が壊れる!?
脳は3層にわけてケアをする
ここで先生の言う「脳」とは、脳機能の第1層「脳幹」のことだ。睡眠習慣の乱れは脳の土台である脳幹に負荷をかけ、その上に立つ第2層(大脳辺縁系)、第3層(大脳新皮質)の働きを、文字通り足元からゆさぶり、ダメにするというのであった。
やはり……わたしは初手からなってない状況だった。定年認知症リスクチェックテストで✖がついた中に、脳幹を守る生活習慣の有無を問う項目は確かにあった。しかし、それらがこんなふうに、いの一番に質問され、また、定年後、脳が壊れるとはっきり言われるほど大事な項目であったとは……。
事実、先生がこれまで診てきた、家族も手に負えないと嘆く認知症の患者さんたちに、規則正しく寝て起きる習慣がついただけで認知的にも情緒的にも目覚ましい改善と安定があった例は非常に多いという。逆にいえば、認知障害をもっぱら人間の前頭葉という、いわば知性の花形役者のよろつきととらえる人は多いけれども、それは結果であって、役者のパフォーマンスの足をひっぱっているのは、実は縁の下の力持ちというか、舞台を支える土台のガタつきであって、まずそこを正常な状態に整えるべきということを先生はやさしく説明してくれるのであった。
土台のガタつき……ちょっと傾いて(かぶいて)いたほうがカッコいいなどというのは、20代までで終わりということか。そこまでは若さゆえの自動的な回復能力がじゅうぶんに働いた。しかし疲れがとれないな、と自覚するようになる40代以降は、睡眠負債を蓄積しないよう心がけ、ひとつしかない土台を人生の最後まで持ちこたえさせるべく、大事に使ってメンテナンスを続けなくてはいけないということのようだった。
うーん、先生、わたしはあと数年後に定年を迎えたら、朝は好きなだけ寝坊して、夜はだらだら起きていても遅刻の心配はないし、誰にとがめだてされることもないと思ってかなりそれを楽しみにしていたのですが。
すると先生は言った。
「定年後こそ目覚まし時計が必要です。規則正しい睡眠習慣のない人は、是が非でも今からそれを習慣にする努力をしたほうがよいと思います。脳機能を正常に100年保つという視点から見れば、人間は一生“不良”になってはいけないのです」
どうやら脳には正しいトリセツがあるらしい。
どうやら脳には「正しい取り扱い方」があるらしい。それが題名にもある17の習慣ということなのだが、これまでこんなふうにわかりやすい脳のトリセツ(取扱説明書)など、見たことも聞いたこともなかった。第一、脳には万人に共通のトリセツがあるということすら、誰もはっきりとは知らなかったのではないかと思う。
40代以降、なるべく早くこのトリセツを知り、その通りの脳ケアを行っていけば認知症にはならない、と先生は静かに語りかける。50代、60代、今からでも決して遅くない。要は人間社会にとって、脳を正しく取り扱うということが、これまで全くなおざりにされてきたため、今は定年認知症という現象がよく見聞きされることのように思えるのだと。しかし正しいトリセツの啓蒙が進めば、いずれそれは死語になるでしょう、と先生は言う。
万人に共通の正しい脳のトリセツ、そのいちばんの秘密は、脳を3層にわけてとらえることだろう。それぞれの層にとって正しい取り扱いの流儀は、それぞれ全く異なる。さっきの脳幹は土台の第1層、その上に大脳辺縁(だいのうへんえん)系という中間の第2層がある。最も上層の第3層が大脳新皮質で、そこだけが認知症でよく世間に取りざたされている。
しかしどうやら第3層だけパフォーマンスを上げようとしても、その下の層のどちらかがダメだと上位の層もいっしょにダメになるということらしい。しかもそれぞれはメンテナンスの方法が違うのだ。物忘れ防止にいっしょうけんめい記憶ゲームで脳トレしたって(それは第3層のトレーニング)、そもそも生活習慣(こっちは第1層の保全策)が乱れていれば、結局、いずれ高確率で第3層は壊れる(泣)のだ!!
わかりました。先生、わたくし今日から基本的な生活習慣を悔い改めます。ちゃんとします。それで大丈夫でしょうか。
課されたハードルがだんだん高く思えてきて今にも逃げ出しそうなわたしに、先生は笑顔で言った。
「ところで、体重は現在、ベストをキープしていますか」
つづく