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アロマショップに入れない!

佐々涼子

佐々涼子

 1968年生まれ。日本語教師を経て、ノンフィクション作家に。2012年『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』(集英社)で第10回集英社・開高健ノンフィクション賞を受賞。他に『駆け込み寺の男 ―玄秀盛―』(ハヤカワ文庫)、『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている』(早川書房)など

PHOTO©Hayakawa Publishing Corporation

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病気になると、別のセンサーが働くようになる。

 

 

病院からの帰り道、ふらふらっと香りに引きつけられたのは、ハーブティーとアロマの店だった。小さな店舗で、いくつかのアロマディフューザーから吹く霧が、花や果実の芳香を漂わせている。

 

佐々さん_photo

 

 

そういうのとは無縁の生活をしていたので、一度通り過ぎ、Uターンしてもう一度店の前を行き過ぎてみる。「アロマなんて柄にもない」と思い、帰ろうとしたが、ここで「ん、ちょっと待てよ」と、もうひとりのわたしが、わたしの考えに疑問をさしはさんだ。

 

 

「その、柄にもないって、何なのよ?」

 

 

そりゃ、確かに、化粧っけもないし、おしゃれもしない。女子と名のつく女らしさを私は見事に持ち合わせていない。

 

 

でも、心惹かれたものに触れようとするときに、わたしを躊躇させてしまう、この「柄にもない」という呪詛の言葉は、はて、いったいどこから降ってきたのだろう。

 

 

いつもなら、治安が悪かろうが、衛生状態が悪かろうが、地球の裏側だろうが、心惹かれれば、未知の世界にグイグイ入っていくことができるのに、わたしはアロマの店に入れない!

 

 

右を見て、左を見て、後ろを振り返ってみた。誰も見ていない。誰もとがめだてをしていない。誰も気にしていない。何にも悪いことをしていない。

 

 

なのに、セルフイメージから離れた店に入ろうとするとき、わたしには目に見えない制限がかかる。なんだか柄にもなくて恥ずかしいのだ。実際のところ、その場で「柄にもない」と思っているのは、たったひとり、わたしだけだった。

 

 

わたしがアロマオイルを買ったなんていえば、まず間違いなく、わたしの友達は「らしくない」と言って大笑いするだろう。家族も「母さん、どうした?」と怪訝に思うに違いない。そうやって、長い間、セルフイメージに縛られ、そのセルフイメージを自らコピーしながら、私はとうとう半世紀も生きてきたというわけだ。

 

 

ああ、そうか。そうだったのか。ごめんね、女子のわたし。「女子をこじらせる」という言葉が頭の上を通り過ぎるたびに、わたしには無関係なものかと思っていたが、誰でも何かしら多少はこじれているものなのかもしれない。
でもね、たぶん、きっと、それぞれありますよね。「柄にもない」からって挑戦しないものが。

そもそもセルフイメージというもの自体があやしくて、ものすごく古い時代から更新されていない。からだもこころも変わっていっているのに、いつまでも20代の頃や、30代の頃の自分の持っていた自己イメージを捨てきれていない。

 

 

からだは貧血でふらふらで、駅から家まで歩くのもしんどいのに、マインドはいまだに体育会系で、頭では(いつの時代なのか)「ビリー・ザ・ブートキャンプ」のビリー隊長が、「オウ!ダメダメ、スクワット50回!休むな!働け!」と叫んでいる。なんで、そんなイメージを、いつまでも心に置いているんだか。

 

佐々さん_photo

 

 

……とは言っても、アロマショップでの場違い感はぬぐえない。いろんな葛藤に打ち勝ち、やっと入ってみたものの、おじさんが化粧品売り場に迷い込んだみたいに、ドキドキしてしまった。

 

 

ボトルがいっぱい置いてあって、どうチョイスしたらいいかが、ぜんぜんわからない。しかし幸運なことに、売り場の人がとても親切な人で、懇切丁寧に使い方を解説しながら、いくつもの香りを嗅がせてくれた。

 

 

これが、面白いのだ。香りというのは不思議なもので、「とても人気があるんですよ」と紹介された香りでも、まったく自分にはピンとこないものもある。

 

 

また、集中力を養いたいと思って香りを手に取ると、「これじゃない」感がして、そもそもからだは集中よりもリラックスを求めているのだという率直な本音があらわになったりもする。

 

 

こころ、というより、もっと深い本能的なものと結びついた何かが、「これは違う」「これは必要」と、よりわける。お店の人が言うには、「友達でも、相性がありますよね。それと同じようにその人にしかわからない相性というのがあるんですよ。体調が悪いならなおさら、そのときのからだに必要な香りがあるのかもしれませんね」。

 

 

 

いろんな香りでいろんな気持ちになった。

 

 

昔住んでいた家の、北側の庭を思い出させる香り、

洗いたてのタオルケットにくるまったような香り、

交響曲を聞いているときのようなゴージャスな香り、

夏休みが終わったときのさわやかで、ちょっと寂しい秋みたいな香り、

友達以上恋人未満だった人が恋人になって安定し始めたころの完璧な幸福感をイメージさせる香り、

月光浴をしているような神秘的かつおごそかな香り。

 

 

 

色や音より、もっと深いところにアクセスをする体験だった。喩えるなら、顔も忘れてしまったのに、とても懐かしい人から「やあ」と言われたような。あるいは、まるで前世の記憶を呼び覚ますような。

 

 

ものの本によると、視覚や聴覚よりも、嗅覚は人の記憶を呼び覚ましやすいものだそうで、感情と密接に関連している。マルセルプルーストの「失われた時を求めて」で、主人公が紅茶に浸したマドレーヌの香りによって、昔の記憶を取り戻すことから、嗅覚によって記憶が呼び覚まされることを「プルースト効果」と呼ぶそうだ。

 

ひとつ、とても惹かれる香りがあった。ラベルには「リンデン」と書いてある。

 

 

「これ、いいですね。すごくいい」

 

 

森の中にある泉の静かな水面をイメージさせる香り。自分にフィットする香りを嗅ぐと、頭頂の天窓が開いて風がからだを吹き抜けていくような涼しさを感じる。

 

佐々さん_photo

 

和名は菩提樹。シューベルトの「菩提樹(リンデンバウム)」のリンデンだ。中世ヨーロッパでは、自由の象徴であり、恋人の木ともよばれる神聖な木。鎮静作用があり、緊張をほぐす。小さくて可憐な花から作ったハーブティーは悪夢を追い払う「グッドナイトティー」ともよばれ、不眠に効くそうだ。

 

 

なるほど、なんだか納得。自分のこころがウソをついていても、からだはちゃんと何を欲しいかわかっている。

 

 

「ティッシュに一滴たらし枕元に置くという方法もありますよ。私は、ティッシュを丁寧に折りたたんで、一滴だけ垂らすのを、入眠の儀式としてやっています」とお店の人。

 

 

からだは瞬間ごとにゆらいでいる。朝と夕では体調も違う。全面工事リニューアル中だ。仕事もできず、家事すらおぼつかない日々を過ごしているが、こころのなかでも、なにか知らぬうちに変化が起きているらしい。よくないことももちろんあるが、とても豊かな変化もある。

 

 

アロマはおじさんにもオススメしたい。たぶん、とてもパーソナルで、誰も知らない記憶のらせん階段を降りていくような体験なので、たとえパートナーであっても他人に選ばせるものじゃないように思う。お店のおすすめもあてにはできない。でも、大丈夫だ。自分のからだは正確に、自分の好ましい香りを引き当てる。

 

 

もし、クリエイティブな仕事に就いている人ならなおさら、香りはインスピレーションの泉だ。お疲れのお父さんたちも、「柄にもない」なんて言わずに、会社帰りにでも、一度アロマショップに行ってみてはどうだろうか。

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