第6回 知られたくない過去
恋愛、というものが佐知の人生からなくなって幾年月。写真の中の自分は、まるで違う人間のようだった。「おっちゃん」と呼んでいた恋人は、バイト先の客だった。イギリス留学の資金を貯めるため、東銀座のバーで働いていたのだ。
そこは、当時勤めていた会社から数駅という便利な立地でかつ、社の人間は決して来ない店だった。
「お疲れ様でーす」
と言って帰宅するふりをしたあと、東銀座の商店主が集まるバーに出勤していた。その事実は、誰にも話していない。
「イギリス留学の資金はテヘヘ、水商売で貯めたのよー」
なんて、明るく言える佐知ではなかった。特に、今の家族には。
夫の家はお堅い銀行勤めの家だったし、そこに嫁いだ身としては、最も隠したい秘密だった。だから過去の写真は実家の物置に隠しておいたのだが、エンディングノートをつけるにあたって、掘り起こしたのだ。
亜希の葬式やら四十九日で実家に通ううち、母親の目を盗んで物置を探った。そこは、何十年という要らない荷物の倉庫だった。両親の若い頃のアルバムも何冊とあったが、かびて埃だらけになっていて、手をつける気もしなかった。
自分の若い頃の写真は、嫁ぐまえ、鍵付きの箱に入れておいた。ロンドンのアンティークショップで買った、クラシカルな缶である。その小さい鍵は、ずうっと引き出しの隅に保管してあった。
「あったあった」
佐知は、他の荷物が崩れないようにそっと秘密の缶を取りだし、埃をぬぐった。亡き父の建てた家の庭は、半世紀にも及ぶ庭木と雑草で鬱蒼としていて、その中にある物置だ。湿気で、缶も少し錆びている。
「開くのかな? よいしょっと」
佐知は小さい鍵でその缶をこじあけた。
「開いた開いた」
中を覗くと、写真の保存状態は思いのほかよかった。タイムトラベルが始まった。
佐知は持ち帰った秘密の缶を、自室クローゼットの奥にしまってあった。もちろん、人のクローゼットなど探る家族ではなかったし、そこは実に安心な場所ではあった。しかし、もし自分が死んで、遺品を処分することになったら、誰かの目には触れることになってしまうだろう。
34歳も年上の「おっちゃん」と酔って戯れている写真など、夫にも子供たちにも、死んでも見せたくない。綺麗に着飾るお店の写真ならまだしも、「おっちゃん」と温泉旅行に行ったときの、ふざけて浴衣の前をはだけ合っている写真もあった。顏は二人とも、酔っぱらって真っ赤だ。
「ぷっ」
おっちゃんは楽しい人で、クリスマスパーティの時、パーティ用のペーパーハットをかぶって、吹き戻し笛を吹きながら変顔している写真も出て来た。本当におっちゃんとは、楽しいだけの時間を過ごした。もちろん、不倫だったが。
「・・・・」
老舗乾物屋の三代目で、粋な遊び人だった。おっちゃんの家は築地界隈にビルもいくつか持っていたので、バブル景気で散々贅沢もさせてもらった。酒飲みの美食家で、佐知の舌を肥えさせたのもおっちゃんだった。
おっちゃんは筋金入りの江戸っ子だから、寿司と蕎麦、鰻と焼き鳥は極めていた。しかし美食がたたって痛風で糖尿だったおっちゃんは、佐知と遊んだ時代が最後で、死んでしまったのだ。
まさにピンピンコロリ。佐知が勤めていたバーにも、前夜まで飲みに来ていて、翌朝、寝室で亡くなっていたという。バーのママが月末にツケの請求をした際、奥さんから告げられた。
「おっちゃん・・・」
佐知は懐かしさでいっぱいになった。二人とも遊びのつもりだったが、慣れ親しんだ二年間、二人は愛し合っていたのだ。その確信は、今でもある。おっちゃんには色んな女性がいたが、佐知が一番愛されていたという自信もあった。
妻よりも愛されている女、というコピーをどこかのブランド広告で見たことがあるが、年取った金持ちの男の真実だろう。佐知は当時、ありとあらゆるブランド物をおっちゃんに買ってもらい、着飾っていた。
それだけではない。付き合っていた頃、たびたびおっちゃんは、
「バイト代だけじゃ足りんだろう」
と言って、佐知に小遣いをくれていた。イギリス留学資金は、そうやって貯まったのだ。おかげで、ロンドンでもいいフラットに住め、いい語学学校に通うことが出来た。それが佐知の「今」を作っているわけだから、今でもおっちゃんの愛に支えられている気がするのだった。
しかしその写真を、家族に、特に娘の花梨には見られるわけに行かなかった。死んで墓場に持って行きたいもの、それは、おっちゃんとの写真だった。夫とは、あっさりした性格もあって、「同士」のような付き合いだった。おっちゃんとの関係は親子のようであり、年取った男の包容力と情の厚い性格のせいで、非常に濃いものとして、佐知の心に刻まれている。
本当に愛していた人は誰か、と自問したら、それはもしかしておっちゃんかもしれなかった。佐知も若く、一番美しい時であり、恋愛体質でもあった。異性を愛する力が、もっとも高かった時代だったのだろう。
「おっちゃんの子供、欲しかったな・・・」
佐知は心の中で言った。絶対可愛かったはずだ。もちろん、そんなことできなかったが。イギリスに行く前、おろしたのだ。おっちゃんの子供だった。おっちゃんは知る由もない。なにしろ、死んでいたのだから。
しかし今でも、あの時の子が生きていたら・・・と考えることもある。産んでいたらシングルマザーとなって大変な苦労をしただろうし、イギリスにも留学できなかった。今の仕事にもつけなかったし、安定したいい生活もできなかっただろう。
佐知は今、エリートの夫と娘に囲まれて、幸せなはずなのだ。長男は謎の生活をしているが、親に迷惑をかけるような子でもないし・・・。平凡だけど、この幸せを守るためには、過去は葬らねばならなかった。
「バイバイ、おっちゃん・・・」
佐知は仕事用のシュレッダーで、おっちゃんとの思い出を断裁した。写真なんかなくても、心の中に生き続けるはずだ。
夢で、夢で逢いましょう。
その夜、早速おっちゃんが夢に出て来た。えらく生々しい夢だった。当時のおっちゃんと、今の佐知がセックスをしているのだ。いや、しようとしている。が、できない。おっちゃんは勃たず、佐知は濡れず。なんとかつながろうとしているが、果たせない。その上、二人とも気持ちが、いま一つ盛り上がらないのだった。
「濡れず、勃たず・・・ガッハッハー!」
夢の中で、おっちゃんは豪快に笑った。佐知は、笑えなかった。
これまでのお話はこちらで読むことができます。
次回は、4月15日公開予定です。お楽しみに。