第1話 突然の別れ
美穂は13年間結婚していた男と、2年前に別れた。普通に暮らしていたある日、突然夫は、いなくなったのだ。
蒸発、というのではない。帰ってこないので携帯に電話をすると、
「しばらく一人にしてくれ」
とだけ言われた。
「なんで?」
と当然聞いたが、
「一人になりたいんだ」
の一点張りだった。
そのうち、美穂が会社に行っている間に、コソコソ着替えやら所持品を運び出すようになった。杉並にある夫の実家に電話をしても、そこにはいないようだから、たぶんどこかに部屋を借りたのだろう。
念のため会社にも電話で確認したが、出勤はしているようだった。二人ともIT関連の会社勤めで、夫とは職場結婚だった。美穂は結婚と同時に辞め、別の会社に転職した。ウェブデザイナーという仕事柄、選ばなければ就職先はいくらでもあった。
しかし、二人で住むためにローンを組んで購入した2LDKのマンションは、一人では広すぎた。子供は夫が欲しがらなかったので作らず、美穂もどっちでもいいかと思っているうちに、四十も半ばを過ぎていた。
別れる一年前、二人で飼い、子供のように可愛がっていたウサギが死んだ。ウサギの平均寿命は十年だというから、九年生きてくれたのは大往生と言えば言えるが、美穂はペットロスになってしまった。
毎晩ワインをがぶ飲みし、泣いてはウサギの話ばかりしていたから、それで夫は嫌気がさしてしまったのではないか。いいや、ペットロスからは数カ月で立ち直ったから、それが直接の原因ではないはずだ。
思えば、夫はあれほど可愛がっていたウサギが死んだときも、あまり悲しがらなかった。
そこがまずひどいと、美穂は思った。
二人の子供代わりだったのに、夫は泣きもしなければ、葬儀代も出さなかった。
ネットでペットセレモニーという小動物専門の葬儀屋を選んで、移動火葬車でマンションの前で焼いてもらった。
が、夫は家に居ながら、遺体を運ぶこともしなければ、お骨拾いもしないのだった。
「俺はいいよ」
とだけ言い、全ての事は、支払いも含めて美穂がやった。
ひどい、ひど過ぎる・・・。
そもそも、結婚式の費用だって、夫は一銭も払っていないのだ。あの頃は二人とも給料が良くなかったから、婚約指輪は夫の母親がお金を出してくれ、結婚指輪は美穂が買った。
夫は、
「俺はどうせしないし、いらないよ」
と言ったが、
「それじゃあ結婚式の指輪交換はどうするのよ?!」
と美穂がキレ、結局自分で購入してしまったのだ。
両家だけの人前式だったが、その費用も美穂が手付金を出しておき、祝い金でまかなった。考えれば考えるほど、夫が許せなくなって来る。
そもそも、一人になりたいってなんなん?
色々考えるうちに、美穂は眠れなくなってきた。
もともと、料理が好きな方ではなかったが、夫がいれば、仕事帰りにデリに寄り、ワインに合うものを色々と見繕っては、毎晩二人で晩酌したものだ。が、一人だと食事もどうでも良くなって、ワインだけを飲むようになった。
毎晩一人で一本空けるようになってしまい、ソファで泥酔するが、酔いがさめると同時に目が覚めてしまう。そこからはもう眠れないから、睡眠時間は数時間だけだ。睡眠不足の上に、考えれば考えるほど、夫に対する恨みがつのった。
そもそも、家のローンを払ってもらっているからって、生活費は美穂の負担であった。贅沢をすればするほど、美穂の財布は寂しくなり、かつてはよくしていた旅行も、いつしかしなくなっていた。
「このワイン美味しいね、やっぱりディンデリはうまいね」
などと言いながら、ラグジュアリーな食生活を楽しんでいた夫。二人のために何か買って来た試しは、一度もなかった。
考えれば考えるほど悔しくなって、泥酔してもわずか一時間で目が覚めてしまう。足元はふらつき、自分でも驚くほど痩せた。
「やばい、このままじゃ、死んじゃう」
美穂はとうとう、会社近くの心療内科を訪ねた。やはり不眠で苦しんでいた同僚が紹介してくれたのだ。
「二分診療で眠剤とか安定剤、すぐ出してくれるから便利よ」
と。それがいい医者なのかどうかは分からないが、楽になれることは確かだった。
「薬を飲み始めたら、お酒はやめてくださいね。記憶障害や呼吸抑制、翌日の眠気やふらつきが出たりして危険ですから」
と医者には言われたが、酒を飲まないことには、夜の淋しさが増した。
一人でやることもない。毎日会社に行って、一日八時間以上マシンガンのようにキーボードを叩き続け、家に帰って風呂入って寝るだけだ。何のために生きているのか、美穂はよく分からなくなってきていた。
あんな男でも、やり直したい。夫と会って、自分の何がいけなかったのか聞きたい。そして、それを直すから、もう一度結婚生活をやり直したい。
美穂は夫の携帯に、何度も電話をかけた。夫が出ることはなかったから、ラインにもメッセージを送り続けた。
「また既読スルーかよ」
バカヤロー!! 私の何がいけなかったんだよー!!
美穂は泣き叫びながら、その辺にあるものを投げた。ワイングラスは砕け散り、翌朝、素面で片付ける時は惨めさが増した。結婚祝いにもらったバカラのペアグラスは、一つだけとなった。
三カ月ほどたったころ、夫からメッセージが残っていた。
「ローンの支払いがきつくなって来た。今借りてる部屋の家賃とダブルで支払うのはもう無理だ。すまないが、その部屋は売るから、君も適当な部屋を借りてくれないか?」
「え? 出てけって事?」
一人暮らしに満足して気が済んだら、いずれは帰って来るものとばかり思っていた美穂にとって、それは青天の霹靂だった。
◆第2話は、7月8日(木)公開予定です。お楽しみに。