第3話 唯一の女友達
思えば、夫と最初に関係を結んだときも、酔った拍子に逆レイプのような形であった。
「わー、ごめん、美穂ちゃんとは友達でええっ」
と夫は叫んでいたが、時すでに遅し。二人は一体化していた。
美穂だってもともとオタクで男縁はないほうだったが、夫に関しては何故か異様に性欲を感じたから、きっとタイプだったのだろう。
「裏成りのキュウリみたいな男なのに、なぜ・・・」
美穂は独り言ちる。しいて言えば、メガネをかけるとカッコよく見えるところが、チャームポイントだったのかもしれない。逆にいえば、メガネをかけてる青白い細身の男なら誰でも良く、会社にはそんな男は腐るほどいた。
あまたの「メガネ君」の中から夫を選んだ理由は、もしかしたら匂いだったかもしれない。ヘンな話だが、夫は少々腋臭があり、その匂いが美穂を落ち着かせたのだ。まだ二人が抱き合って寝ていた頃、美穂はよく、夫の脇に顏を埋め、安心して眠っていた。
あの幸せな思い出があるからこそ、目の前の現実を耐えて来た。
美穂に指一本触れなくなった夫は、激しい夫婦喧嘩の末、美穂が過呼吸で倒れた時も、マックの紙袋を手渡し、
「救急車、呼んだからさ。病院行って」
と冷たく言い放った。床に倒れ、体中から冷や汗を吹いていた美穂を、救急隊員が来るまでほったらかしにしたのだ。
震える手で紙袋を口もとに持って行き、フライドポテトの匂いをスーハ―した。呼吸は次第に落ち着いて来たから、ありがたい処置だったと言えば言える。しかし・・・。
「そんな冷たい夫、世の中にいるか?」
ひどい、ひどすぎる・・・。
それでもここに夫がいて、ルームメイト状態でも誰かがいた頃が懐かしい。
美穂はほんとうに、一人だった。もう何が食べたいとか、何がしたいとか、そういう気持ちもなくなってきた。
ふらふらと会社に行き、新幹線になったような気分で仕事をし、帰ってきて寝るだけだ。
それでも、家に帰るとそこに夫や、死んだウサギがいた名残があり、寂しいながらも落ち着けた。
美穂はそのレトロなマンションが気に入っていたのだ。近所に林立するタワマンとは違い、低層マンションで落ち着きがあった。古いから水回りには少々難があったが、今では珍しい、ゆったりとしたスペースが、共有部分にもあった。
住人は老人ばかりだが、中でも珍しい同世代の住人、清水瞳とは友達になった。フレンドリーな瞳は、ロビーやエレベーターで美穂に会うたび、ニコニコと話し掛けて来た。
美穂はもともと痩せていて、顔色は悪く、人から「暗い」という印象を持たれることが多く、友達は少なかった。仕事柄姿勢も悪い。だから誰かと目線を合わすこともあまりない。が、瞳は気にせずぐいぐい迫って来たのである。
思えば、それは夫がいなくなった頃からだった。淋しさがにじみ出ていたのか、
「毎日降るや降らないで、湿っぽくて嫌ですねぇ」
とまずお天気会話から始めて、
「煮物、作り過ぎちゃったんだけど、おすそ分けいかが?」
などと声をかけて来た。
「・・・え、いいんですか?」
友達でも親戚でもないと遠慮をするも、
「うん、どうせ飽きて腐らせちゃうだけだからさ」
と気にしない。
「私一人モンだから」
と笑う。
「私も一人です」
「あら、じゃ独身女性同士、仲良くしましょ」
瞳は満面の笑顔でそう言った。
「福顔」というのはまさにこういう顏ではないか、と美穂は思った。瞳は正月のおたふくさんそのもので、全身から「なんかいいことありそうな感じ」がにじみ出ていた。
美穂は夫が出て行って以来、初めて明るい気分になった。
「じゃちょっと九階まで来てね」
瞳は自分の部屋に美穂を招き入れ、玄関先でタッバに入れた煮物を渡してくれた。
そこは、二階で北向きの美穂の部屋とは全く違う、日当たりのいい、景色の良い素敵な部屋だった。
「へえー、同じマンションでも、こんなに違うんですねー」
気持ちが晴れ晴れとするような風景だった。窓の向こうには東京タワーも見える。
「良かったら今度お酒でも飲みに来て。あ、猫嫌いじゃなかったらだけど・・・」
よく見ると窓辺のカウンターテーブルに、太った猫がゴロゴロしていた。
一匹は洋猫なのか、毛足が長い。
「ミーたんブンたん、ほら、ご挨拶は?」
と瞳が声をかけると、太った猫たちは、どすっとカウンターから下りてきて、美穂にすり寄って来たのだった。
「えー、すごーい。おりこうさんだね」
美穂は猫たちの背中を撫でた。ウサギが死んで以来、温かくて、ふわふわしているものに触るのも、初めてだった。
美穂は瞳が、一瞬で好きになってしまった。
「美味しい!」
もらった筑前煮を、温めることもなくタッバのまま、白ワインのつまみにパクパク食べる。食欲が湧いたのも久しぶりの事だった。
生きている心地とは、このことだ。美穂はそう、心の中で言った。