第8話 二人の告白
「大動脈乖離という病名を聞いたことがありますか?」
菅野君は、テレビの方を見たまま言った。
「あ、ネットニュースでたまに出てくるやつ。車運転してて突然死した人がそのまま突っ込んじゃって、あとから病名が出て来る・・・」
「それです。五年ほど前、自宅で背中に激痛が走り、家族に救急車を呼んでもらったんです。それっきり記憶がなく、気が付いたら病院のベッドにいました」
美穂はいつもの癖で、すぐさまスマホで「大動脈乖離」を調べた。
大動脈の血管が裂け、血液の通り道が、本来のものとは別にもう一つできた状態だと書いてある。
「その結果、大動脈が破裂したり、多くの臓器に障害をもたらせたりする。放置すると命にかかわります。わ、怖い病気じゃないですか。手術したんですか?」
「搬送が遅れていたら死んでいましたが、幸い手術はしないで済みました。その代わり、後遺症でいっときは歩けなくなって、自宅で寝たきりでした」
「まぁ可哀想に・・・」
「今でも、足に少し障害が残っているんですよ」
「え、そうは見えないけど・・・」
「躓かないよう、ゆっくり歩いてますから」
ああそれが、菅野君を優雅に見せているんだなと、美穂は思った。
「原因は、なんだったんですか?」
「不摂生です。仕事に夢中で、徹夜も嬉々としていました。酒、たばこ、コーヒー、食事も外食ばかりでした。太ってたんですよ。高血圧なのに、何も改善してなかった」
「あ、それで手料理?」
「そうです。タバコとコーヒーをやめ、酒もほどほどにしました。今でも治療は続いていて、定期検診もしています」
「でも、とっても健康的に見える・・・」
「ところが、今も動脈瘤があって、あと二ミリ大きくなったら、人工の大動脈を入れる手術をしないといけないんです」
「まぁ~、そんな状態だとは! 私の面倒見てる場合じゃないじゃないですか!」
「いやそれは、張り合いになっていいです」
菅野君は一瞬美穂の方を見て、にっこりと笑った。
「実は私も・・・」
と美穂が心療内科に通っていることを告白しようとすると、
「知ってます」
と菅野君が制した。この家を掃除していれば、美穂がどんな生活をしているのか、一目瞭然だった。
「お酒は減らして、薬も少しずつ減らしたほうがいいです」
「ですよね」
「ちゃんと食べて、ちゃんと寝ることです。それだけで人は、幸せになれます。僕は死にかけて、やっと分かったんですよ」
「菅野君がこの家に来てから、お陰様で健康的になったよ、私」
菅野君は美穂宅に出勤する際、お昼と夕飯の食材を買って来てくれるのだ。
毎日の事なので、美穂も食費を半分負担することにしていた。
「でもさ、いずれはいなくなると思うと不安で・・・」
「はい、僕も精一杯健康維持を心掛けていますが、なにしろ爆弾を抱えているので、約束はできません」
「いや、そういう問題じゃなくて、菅野君は他人でしょう? いずれはいなくなるんだよね? 今はいっとき、気分転換も兼ねてここに通っているんだよね」
「あ~」
菅野君は一瞬考えて、言った。
「そういうことですか」
「うん。私、夫と別れてから寂しくて。飼ってたウサギも死んじゃってね。コロナで誰にも会えなくなっちゃったし。それで自棄になってたの。また一人になっちゃったらって思うと・・・」
じとーっと菅野君の横顔を見つめる美穂に、振り返りもせず菅野君は言った。
「ここに通い続けることは生きてる限りできますが、肉体的なご希望には添えません」
「は?」
「大動脈乖離のあと、性的不能になりました」
「へっ、そんなこと期待してないよー」
くそ真面目に告白する菅野君がおかしくて、美穂は笑った。
「セックスなんてしなくていいよー。一緒に寝てくれるだけでいいから」
菅野君が振り返って、言った。
「一緒に寝る、ですか」
「うん。そしたら睡眠薬なくても寝れそうな気がするんだよね」
「うーん、でも、あれですか? 伊藤さんの部屋にあるシングルベッドでは、二人寝るのは不可能だと」
「ですよねー、きゃっきゃっ」
菅野君は背が高く、太っていた頃は相当の巨体だっただろうと推測された。
「僕、自分ではわからないんですけど、鼾もすごいみたいなんですよ、家族によると」
「あ、鼾なら私もすごいらしいですよ。元夫がよく言ってた。隣の部屋までとどろき渡るから眠れないって」
「しかしソーシャルディスタンスを取らなきゃいけない今、一緒に寝るというのは相当な濃厚接触ですよね?」
「かなり!」
二人でケタケタと笑った。
「とりあえず、甘えてみていいですか?」
美穂はソファに横になり、菅野の膝に、頭を乗せた。
「こんな感じですか?」
菅野はその頭を、優しく撫でた。
「うんうん、いい感じ・・・こういうのが、私には必要なの」
菅野の大きな手が、あたたかかった。長く求めて得られなかったもの。美穂は疲れ果てた旅人が、やっと宿に辿り着いたように、コトっと寝てしまった。
睡眠薬も飲まず、泥酔したわけでもなく、寝たのは久しぶりの事だった。気が付くと、ブランケットが掛けられていて、朝になっていた。
「おやすみなさい」
というメモが、テーブルの上に置いてある。
「明日また来ますって、通いのお手伝いさんか?!」
美穂は明るい気分で、久しぶりに朝ごはんでも食べてみようと、キッチンに向かった。
◆次回は、7月29日(木)公開予定です。お楽しみに。