最終話 人生を生きなおす
渓谷の下流まで歩くと、上流でどんよりと滞留していた水は、清らかな流れになった。
小さい子供たちが、浅瀬で水遊びをしている。
親たちは目の届くところでピクニックをしている。
のどかな風景だった。
スケッチをしている青年や、水辺のカモを眺めて動画を撮る若者たち。
「バリ可愛くね?」
「バリかわええ」
家族連れやカップル、壮年夫婦が散策する中に、自分と菅野が溶け込んでいるのを、美穂は嬉しく思った。嬉しい、とか楽しい、と感じること自体、菅野が現れてから久しぶりに蘇って来た感情だった。
「もう少し行くと、お不動さんがあります。せっかくなので、お参りしていきましょう」
「了解・・・」
嬉しかったが、何年も運動不足だったうえに、加齢も加速している。美穂は膝がかくかく言い始めた。
「あら、龍の口から水が・・・」
不動尊の入口に、ちょろちょろ流れる滝があった。
「量は少ないですけど、岩肌から湧き出る自然の水なので、見てると心が落ち着くんですよ」
菅野が説明する。
「お茶屋さんもある・・・」
その横にある甘味処で、美穂は休みたいところだったが、混んでいて「三十分待ち」と書いてある。
「美穂さん、もう一息です。頑張りましょう」
菅野が手を差し出した。目の前には、五十段ほどの、石階段があった。
「結構急なので・・・」
手をつなぐのを躊躇する美穂に菅野が言った。
「僕につかまってください」
美穂は、酔っぱらってないと内向的で恥ずかしがり屋だった。
「肘に掴まってもらってもいいです」
美穂がなかなか手を出さないので、菅野は手を腰に置き、肘を張った。
「あ、はい」
美穂は菅野の腕につかまり、階段を上り始めた。
「僕は慣れてますから」
「はい」
「岩田先生の治療院は、お不動さんの正面口から出た方なんです。予約をしてあるので、お参りをしてから行きましょう」
「はい」
美穂は疲れたのと甘えたいので、どんどん菅野に寄りかかって行く。
「美穂さん、寄りかかり過ぎないでください。僕もまだ足が不自由です」
「でしたでした」
石階段を上り終えると、まるで京都みたいな借景があった。
「きれい・・・」
赤い灯篭の向こうには、深い竹林が広がっている。
「この向こうには日本庭園があるんです。かなり広いので、散策はまた次回にしましょう。今日は予約時間が迫っています」
そこからもう何段か石階段を上り、等々力不動尊にお参りをした。菅野が何をお願いしたかは知らないが、美穂は、菅野とずっと一緒にいられるようにとお祈りをした。
「さあ行きましょう」
深々と下げた頭を持ち上げると、菅野が言った。
岩田先生の治療院は、等々力不動の正面口を出てすぐのところにあった。先生は言われていた通りのご老人で、施術台に美穂を寝かせると、脈診をして舌を見た。施術着に着替えていたので、あっという間に全身に針を打たれたが、いたくも痒くもなかった。
「私、鍼灸治療ってやったことないんですけど、痛くないですか?」
と菅野に事前に聞いたら、
「先生は無痛鍼のできる数少ない鍼灸師なんです。かなり奥に刺しても痛くないから安心してください」
と言っていた。
最初に出された問診表に、具合の悪いところを書いてあったから、先生はそれに対して、施術中に助言をくれた。
「気圧差で頭痛を感じる時は、空腹時に生薬の胃腸薬を飲むといいよ」
「生薬のっていうと・・・」
「太田胃散とか百草丸とかね」
「え、そんなんでいいんですか?」
先生は笑った。
「胃腸が弱ってると、気圧に影響されやすいんだよ。食事をすると体中の血液が胃に集まる。脳の血液が急に足りなくなっちゃうから、食事前に胃の血流を良くしておくといいんだ。騙されたと思って、飲んでみなさい」
「はい」
「あとね、精神科の薬は少しずつ減らしたほうがいい。あれは脳のレセプターに蓋をしちゃうんだ。辛さも感じないけど、喜びも感じなくなっちゃうから」
「はい」
実は菅野に言われて、美穂はすでに、薬を減らし始めていた。
「新薬は、飲んでた年数と抜ける年数が同じと言われているからね。少しずつ減らして、摂らなくても平気な自分作りをしなさい」
岩田先生の言葉は石清水のように、美穂の体に染み渡る。
最後にお灸をして、施術は終わった。
「好転反応で二、三日具合悪くなるかもしれないけど、乗り越えれば良くなるから。しばらくは週一回ぐらい通って」
施術代は初診料3000円、一回4000円と書いてあったが、知らないうちに菅野が支払っていた。
「え、そんな、自分で払いますよ」
と美穂が恐縮すると、
「僕が紹介したので、初回ゼロ円でいいですよ」
と笑う。
「さあ、お腹空いたでしょう。食事に行きましょう」
「あ、ちょっと待って。どこかに薬局ないですか? 太田胃散買って飲まなきゃ。先生に言われたの。空腹時に飲めって」
「はい、太田胃散、いい薬です」
と言って、菅野がポケットから分包の太田胃散を差し出した。
「持ってるんだ・・・」
「岩田治療院、長いですから」
待合室のウォーターサーバーから水を汲んで、美穂は菅野にもらった太田胃散を飲んだ。
治療院を出、菅野の後をついて行くと、再び不動尊に入っていく。
「えー、また歩くの?」
美穂がごねると、
「レストランは渓谷の中から行けるんです」
「えっ」
石階段を下る時、菅野がまた、肘をつき出した。美穂はその腕に手を差し込んで、一緒に急な石階段を下った。
「膝が笑うんですけど・・・」
菅野は笑っている。
「下ったらまた登りますよ」
「うっそ~」
「登ったらご褒美が待っています」
渓谷の中にレストランなんかあったかな、と、美穂は思った。
来るときは川に落ちないよう、足元ばかり見ていたから、周囲を観察する余裕はなかった。
「ここから登ります」
「あ、これ? 」
渓谷の途中に、OTTO↑と書いてある看板が、冗談みたいにあった。
まるで、あるはずのないところにある、「注文の多い料理店」みたいだ。
緑の斜面にコンクリート製の丸太で作られた急な階段を登っていくと、古いイタリアンレストランがあった。
PIZZA PASTA CAFEと赤いネオン、OTTOと緑のネオンで書いてあるレンガ作りの入口を入り、重い木のドアを開ける。
「予約の菅野です」
「お待ちしておりました」
予約席は大きな窓辺にあり、テラスからは渓谷の緑が、まるでどこかのリゾートみたいに見えた。ウェイターに椅子を引かれ、きれいに整えられたテーブルに座ると、美穂は憑き物が落ちたような気分だった。
はす向かいには菅野が、微笑みながら座っている。
美穂はその姿を心に刻んだ。
もう、これだけでいい。過去も未来も関係ない。この瞬間が、全てなのだと。
◆「mist シーズン2」をお読みいただき、ありがとうございました。シーズン3もお楽しみに。