第5話 母親が骨折?!
緊急事態宣言も明け、感染者も激減、老人も普通に生活していた。貴美子の母もご近所の仲良しさんと体操教室に行ったり、駄菓子の買い物やお参りに出かけていた。
しかし・・・。
こともあろうに母親が、出先で転んでしまったのだ。
仲良しの井上さんから家に電話があり、貴美子は必要以上に落ち込んだ。
ワクチン接種が終わっているとはいえ、ブレイクスルー感染もあるし、できたら病院には近づきたくない。
井上さんは電話でしどろもどろ言う。
「私が気をつければ良かったんだけど、澄ちゃん階段からつるっと滑っちゃって」
神社の石階段が斜めになっていて、手すりもなくちょっと危なかったのだという。
「砂埃でざらざらしてたから、滑りやすかったんだよ」
井上さんは今にも泣きそうである。
「私がお参り行こうって誘ったから。私のせいだよ、ごめんね貴美ちゃん」
「いや井上さんのせいじゃないよ。で、どこ運ばれた?」
「それが、私も乗っけてくんないんだよ、救急車。感染予防対策なんかね?」
「あ、そうか。今親族でも乗せてくれないって言うしね」
「やだ、どうしようか・・・でも骨折だから、この辺じゃアサカさんじゃないかね」
「かもね・・・たぶん病院から電話かかってくるよ。井上さんも心配しないで、今日はもう家から出ないでね」
そういって電話を切ったが、貴美子は不安ではちきれそうだった。
「なんでこんなときに・・・」
母はそもそも、何年も前から足元が危なかったのだ。膝も痛くて階段がキツイからと、一階の客間に引っ越しをしていた。家の入口から玄関、客間までの導線、トイレ、浴室をバリアフリーにして転倒防止をしていたのに・・・。
古い家が建っていた土地だから、一階に客間とお風呂、トイレ、リビングとキッチンを設置で来たことに、貴美子は誇りを感じていた。これが、今風の極小住宅ならそういうわけには行かなかっただろう。
今後起こりうる母の介護を考えても、この敷地と間取りはありがたかった。
しかし、その時がこんなに早く来るとは・・・。
しばらくすると、母親自身から電話があった。
「あ、私、今アサカさんにいるんだよ」
「やっぱり」
アサカ病院はもともと整形外科病院で、貴美子も小さい頃お世話になったことがある。何年か前に総合病院となり、救急も受け入れていた。
「骨折しちゃってね」
「井上さんから聞いたよ。大丈夫なの?」
「うん、今痛み止め効いてるからね。座薬入れられた。大腿骨骨折だって。すってんって石の上に尻もちついちゃったからね」
「だから気を付けてって言ってたのに―」
「ごめんごめん」
元気そうなので、貴美子はほっと一安心した。が、大腿骨骨折って、大変なことじゃないのか?
「治療方針について家族に先生から説明があるみたいなんだよ。入院しなきゃなんないから、着替えとかなんとか、色々持って来てくれる?」
「いいけど、今感染予防対策で、家族が入院してる人もお見舞いはできないって聞いたけど」
「そうなんだよ。だから、受付で荷物を引き渡すみたいで。詳しいことは病院で聞いて」
貴美子はアサカ病院に問い合わせて、コロナ禍の対応について詳しいことを聞いた。
家族は病院玄関でマスクを取り替え手指をアルコール消毒する。
紙マスクは持参し、帰宅後は廃棄する。
受付で検温し、必要なものを手渡し、汚れものを受け取るのだ。
主治医の説明は、なんとオンラインだった。夫のノートパソコンはZoom会議できるようになっているので、その使い方を教えてもらい、指定の時間にガタイのいいバーコード禿げのオッサンと繋がった。
マスクをしているから顏の全貌は分からなかったが、整形外科独特のむんっとした雰囲気が画面から溢れていた。それを自宅のリビングで、無防備に見ている貴美子は、なんだか知らない人がいきなり家に入って来たみたいで居心地が悪かった。
先生は母親の足のレントゲン写真を見せながら、説明する。
「手術の場合はここに、こういうボルトを入れて繋げます」
先生は金属の部品を画面に近づけた。
「全身麻酔での手術になります。ただ、御高齢なのでリスクを考えると、正直手術はお勧めできないんです」
「となると・・・」
「ギブスをして自然につながるのを待ち、リハビリで歩けるようになってから退院する、というのが一番安全かと思います」
「ひええっ」
と貴美子は心の中で叫んだが、冷静に聞いた。
「その場合、どのぐらいかかるんでしょう?」
「本人の再生力や骨密度にも寄りますが、だいたい一カ月ぐらいで退院できるかと・・・これが、手術となると術後二十日ぐらい入院して、リハビリに数カ月かかってしまう」
「マジか?!」
と心の中でキレてから、貴美子は即断した。
「自然治癒でお願いします」
「良かった。僕も正直、そのほうがいいと思っていたんですよ」
マスクで顏全体は見えないが、いい先生で良かったと、貴美子は安堵の息を漏らした。
「一度も面会はできない感じですか?」
「はい、コロナ禍なのでご理解いただきたい。病気ではないので、ご安心ください。リハビリもうまく行けば、退院も早まります」
「よろしくお願いします」
歩けるようにして帰してくれる。それだけで、ありがたい気持ちが湧いて来る。
このまま母が寝たきりになったりしたら、ここでいきなり介護が始まってしまうのだ。
それだけは、なんとしても回避したかった。
そろそろ重い腰を上げて、また瞳と出かけようと思っていた矢先だった。
見たい展覧会もあったし、どこかきれいなところでお茶もしたかった。そう思って通販で新しい洋服も買ったばかりだったのだ。