第6話 病院通い
母親の入院したアサカ病院は、幸い自転車でも行ける距離にあったから、車で行けばものの10分だった。それだけはラッキーだと思えた。
しかし・・・。
母親の我がままが爆発し、毎日届けなければいけないのは着替えだけではなかった。
「マーメイドの甘いパンが食べたい」
から始まり、
「駅ビルのあれなんだっけ。プリン、ほら、美味しいヤツ」
と、名前も思い出せないのに銘柄指定で注文を付けて来る。
病気ではないので母親は元気だ。
貴美子が病院に来ていると分かると嬉しくて、ラインのビデオ通話で話したがるのである。親に簡単スマホを持たせ、ラインの使い方を教えておいて良かったと思った。
貴美子も顏が見られて安心だった。
しかし・・・。
貴美子が家にいるときでもいいのに、近くにいるときに話したいという、気持ちはわかるが困った状態が続いた。病院には必要最低限しか滞在できないから、貴美子は駐車場で車に乗ってから、母親としばらくお喋りをした。
夫の仕事も週の半分は在宅勤務だから、三食のおさんどんに加え、病院通いと母親に頼まれた買い物で、貴美子は忙しくなった。その忙しさに、自分がどこかイキイキとしていることに気づいたが、心は苦しいままだった。
「嗚呼、一人で『愛の不時着』が見たい・・・」
それは、韓国の財閥令嬢がパラグライダーで突風に吹かれ、北朝鮮に不時着してしまい、そこで北の将校と恋に落ちるという話だ。瞳が嵌って四回も見たというので、どうしても見たくなってネットフリックスに加入したのだ。
月々1490円のスタンダードコースでも、家計から捻出するのは痛かったが、習い事や美術鑑賞が出来ない今、それぐらいは許されるだろうと思った。息子がいたときに手続きや設定はやってもらい、使い方も教わった。
「これ二名まで鑑賞者登録できるから、俺も登録していい?」
「いいよいいよ」
ネットフリックスの最初の画面に、貴美子、裕太、と名前を入れてもらい、心が浮き立った。
主人公セリを演じる女優と、恋仲になる将校ジョンヒョクを演じる韓流スターが、二人とも若くないところも大人女子向けだった。韓国の財閥令嬢の女社長V.S北朝鮮高官の一人息子。
三十代になるまで一度も恋をしたことがない二人が恋に落ちる、南北の限界線を越える一大ラブロマンスだ。感情移入するのはもちろん、キムチ漬けてるおばさんじゃない。美しく若く、大金持ちのヒロイン。そして、
「ヒョンビン♥」
身長185センチでガタいの良い、ストレートな表情が女心にグサッと来る韓流スターに、とっぷりとのめり込んでいた。一人暮らしだったなら、ポスターを部屋に貼りたいぐらいだ。家族に見られる可能性がなければ、スマホの待ち受けにだってしたいぐらいだった。
しかしそれは、自粛した。
「く~」
緊急事態宣言が明けても夫はリモートワーク、母親は骨折入院と、本来なら陰々滅滅になるであろう状況下において「愛の不時着」は、貴美子の心を救ってくれた。あとは、一人になれる時間を見つけて、続きをいつ見るか、ということだった。
「あ、俺明日出勤だから、お弁当お願いします」
と夫が言ったとき、貴美子は、
「はいはい」
と二つ返事で応えた。夫はぽかんとしていた。コロナ禍になってからずうっと機嫌が悪い妻なのだ。追い打ちをかけるように母親が骨折。その世話やら医師や看護師との連絡で大変なはずなのに・・・。
貴美子は微笑みがこぼれないよう注意しながら、心の中で叫んだ。
「やった!」
明日弁当を作って夫を送り出し、お母さんの届け物したら、あとはゆっくり「愛の不時着」が見られる。夫が帰ってくるまでは一人だから、一話といわず二話、いや、見られるだけ見てやろう!
貴美子は久しぶりにウキウキと、夕飯の支度を始めた。主人公のジョンヒョクが、保護したセリにご飯を作ってあげるシーンを思い浮かべながら。製麺も手に入らない北では、小麦粉を練って、こね、手動製麺機でくるくると麺を作る。
薄焼き卵を焼き、刻んで、汁蕎麦の上に乗せる。赤い唐辛子を飾り、うやうやしくセリに運ぶのである。素朴で丁寧な、美しい暮らしだった。
そこには愛・・・。そう、大人女子たちのロマンスが、ぎゅっと濃縮されて詰まった、玉手箱のようなドラマだった。
貴美子はうっとりとしながら、お盆に料理を乗せ、ジョンヒョクさながら、リビングに運んだ。
「・・・・!」
驚いたことに、夫はソファに座ってセンターテーブルにクッションを置き、そこに足を上げてふんぞり返っていたのである。それは母親がいるときには見たことがない、実に横柄な姿だった。
「ご飯できたよ」
唖然とした貴美子がやっとの思いで声をかけると、夫は慌てて足を降ろした。
貴美子は食欲を失い、しばらくキッチンに立ち尽くした。