第7話 癒しのコーヒータイム
母親の骨折は順調に回復していた。最初のZoom面談以降は、電話で病状を聞くことになっていた。
先生は、
「このお年にしては素晴らしい骨密度と回復力ですよ。リハビリがうまく行けば、あと数週間で退院できるかと」
と言う。
「ありがとうございます!」
しかしそれは貴美子にとって、また家にずうっと家族がいるようになる、という残念なお知らせでもあった。
実の母だから元気に退院してもらうのは嬉しい。母は、最初は病院生活が新鮮だったのかどこか楽しそうだったが、だんだん元気がなくなって来ていた。
「病院のごはんは美味しくないから、もう食べたくないよ」
といつももらす。
「量ばっかり多くてさ。年寄りがこんなに食べられるわけないじゃない」
「でもお母さん、食べないとダメだよ。ワクチン打ってたって100%じゃないんだから。栄養摂って、体調良くしておかないと」
昼間もリハビリのとき以外はベッドの上だから、うつらうつらしているとまた食事の時間がやって来る。
「一日中ゴロゴロしてるから、お腹も空かないし、夜もよく眠れないんだよ。それ先生に言ったら、睡眠薬くれたけどね」
お腹が空かないと言ったら消化剤もくれたという。
こうやって母親が、病気でもないのに薬漬けになっていくことを考えると、一日でも早く退院したほうがいいのだが・・・。
夫が出勤して母親もいないリビングの心地よいこと。
それがなくなると思うと貴美子はやるせなかった。
「愛の不時着」に嵌ってから、常にその登場人物たちを思い出しながら、暮らしている貴美子だった。お笑いキャラで脇を固めている純愛ドラマなので、面白いシーンを思い出してはにやにやし、純愛シーンを思い出してはじんわりとする。
コーヒーを淹れていても、主人公の姿と自分を重ね合わせた。セリに飲ませたいがため、闇市で生のコーヒー豆を買って来て、竈で焙煎し、すり鉢で挽いて、ガラスのドリッパーでネルドリップするのだ。
貴美子の家ではコーヒーメーカーで淹れていたが、「愛の不時着」に嵌って、思わずガラスのネルドリップポットを買ってしまった。アマゾンで3247円。
「どこにも出かけないんだから、これぐらいいいよね・・・」
と自分に許した。
「愛の不時着」が面白すぎて、貴美子は舞い上がっていた。
まるで初恋中の女子中学生のように。
貴美子はアサカ病院に着替えやお菓子を届けた後、駅前のコーヒー屋さんに行って、挽きたての深煎りコーヒー豆を買い、手挽きした。そのコーヒー屋さんは、何十年も前からそこにあり、一度も入ったことのない店だった。
いつも、コーヒーを焙煎するいい香りが漂っていたのだが、百グラム600円~の豆は、うちには贅沢過ぎると、見て見ぬふりをしていたのだ。
貴美子の家では、一キロ千円ぐらいの、「ちょっと美味しいコーヒー屋さん」という挽いた豆を定期購入していた。それを毎朝五杯分コーヒーメーカーで淹れ、朝夫婦で一杯ずつ飲み、残りを夫のステンレスポットに入れてもたせた。
それは実に「ちょっと美味しい」コーヒーだった。
「安いわりに美味しいよね」
と、夫とも言い合っていたのだ。息子がいる時はもう一度淹れる。なんせ夫も息子もコーヒーをがぶがぶ飲むので、時に2リットルほどのコーヒーを消費する。
だから、こんなにいい豆は、貴美子には一生縁のないものだと思っていた。が・・・。
「愛の不時着」のあのシーンを見て、どうしても、自分のために丁寧に淹れたコーヒーを、こっそり飲んでみたくなったのだ。コーヒー豆を挽くグラインダーは、古いものが食器棚の奥にあった。
それは貴美子の父が結婚当初、サイフォンコーヒーに嵌っていて、買いそろえたものだという。あの厳格な、趣味もない仕事人間だった父が、当時まだ日本では珍しかったサイフォンコーヒーを家で母に淹れさせていたという話を聞き、貴美子は不思議に思っていた。そんな人だったのかと。
貴美子が物心ついたときには、タダのケチなくそ親父となっていて、家にはサイフォンも既になかった。割れたっきりないものとなった贅沢だったに違いない。木製のグラインダーは、割れないのでずっとそこにあった。
改築する際にも捨てきれず、取っておいたのだ。可愛い、小さな、コーヒーグラインダーだった。それに買って来た深煎りのコーヒー豆を入れ、きこきこと手挽きした。半世紀以上前のものが、まだこうして使えることに感動を覚えた。
馨しい香りが漂って来る。
トリセツ通り、煮沸して冷蔵庫内で水に浸しておいたネルドリッパーを固く絞り、金物の枠に差し込み、小さい可愛いガラスポッドにセットする。
自分だけの贅沢のためなので、二、三杯用ではなく一、二杯用にした。
そのころっとした形も小ささも、貴美子の心を癒した。
持ち手が木で出来ていて、ガラスポッドのウェストマークのように皮の紐が結んである。
「可愛い」
挽きたてのコーヒー豆を入れ、お湯を少し注ぎ、蒸らす。キッチンからリビングまで、いい香りが立ち込めた。
コーヒーはカフェインで目が覚めるだけのものと思っていたが、実に安息効果が高いものだと、貴美子は初めて気づいた。
ああ、なんていい時間なんだろう・・・。
貴美子は束の間の幸せを噛みしめた。
◆mist シーズン4、シーズン1、2、3のこれまでのお話は、こちらでお読みいただけます。
◆次回は、11月25日(木)公開予定です。お楽しみに。