最終話 久しぶりの美術展
「早くもロスだよ、ロス」
貴美子は瞳にライン電話した。
「見直せばいいじゃん。私なんて五回目見てるよ」
「うそっ」
「見逃したところとかあるし、見返すたび味わいが違うからさ、楽しめるよ」
貴美子は流石だと思った。自立する女はやることが違う。
でも貴美子は『愛の不時着』が終わってしまった今、何を楽しみに生きて行けばいいのかわからなかった。
貴美子を元気づけようとして、瞳が誘った。
「気分転換にさ、庭園美術館行く? 今、『英国王室が愛した花々』展やってるよ」
「行く行く!」
瞳は庭園美術館の年間パスポートを持っているから、二人までは無料で入場できた。
白金の美しい、広々とした美術館だ。そこなら、貴美子も安心だと思った。
まだ日中は暖かいので、庭園も散歩したかった。
母親のコロナは重症化することなく、来週退院の予定だった。帰ってきたらまた色々お世話が大変だろうし、井上さんともとうぶん出かけられないだろうから、話し相手にもならなきゃならない。
貴美子も出かけるなら今がチャンスだと思った。
久しぶりのお出かけ、しかも都心だ。
心配性の貴美子は、久しぶりの電車で白金まで赴くため、不織布のマスクを二重にして出かけた。
会場の入り口では検温と手指のアルコール消毒があり、ソーシャルディスタンスを取りながらの入場だったが、平日の昼間だったせいか、人もまばらだった。
貴美子はほっと胸をなでおろした。
入場受付に、瞳はいた。貴美子に気づき、手を振っている。
貴美子には手を振られるまで、誰だか分からなかった。
美容院に行っていないから髪が伸び、白髪もそのままで、そしてまた太り、だいぶ老け込んでいたからだ。
「ぷっ、完全防備だね」
貴美子の姿を見て、瞳は笑った。
「ほら、要介護の高齢者帰ってくるから、私がなるわけにはいかないし」
先生からは、治ってももう階段は登れないでしょうと言われていた。
家はバリアフリーになっていたから改装する必要はなかったが、地域総括センターに連絡して、介護認定を受ける手はずを整えているところだった。
実際に母と会えてないから、本当はどういう状態なのか分からなかったが、もしかして貴美子にとって、これが最後のお出かけになるかもしれなかった。
だとしても、いいよ。「愛の不時着」をお母さんと一緒に見直せばいい・・・。
「会場内では感染予防のため、会話は控えてください」と書いてある。
貴美子は瞳と、静かに会場を回った。
それでも貴美子は、瞳に久しぶりに会え、大好きな展覧会に来れ、嬉しかった。
子供でもないのに、瞳と手をつなぎたい気分だった。
幸せを噛みしめたその夜、貴美子は珍しく夢を見た。
亡き父と子供時代の自分、そして姉で、どこかの川岸にいる。対岸の夜景を見に父が二人を連れて来てくれたのだ。暗い中、コンクリートの堤防の上を歩いて行き、対岸のネオンがつくのを待った。
おもちゃのような街のネオンは、暗くなると一斉につくようだった。遊園地みたいなネオンがついたとき、貴美子は叫んだ。
「わー! お父さん、すごいねー!」
「きれい・・・」
と姉も呟いた。父も嬉しそうだった。
その夜景は行ったこともない、香港の夜景のようでもあった。
暗い帰り道、姉はどんどん一人で先に行ってしまった。貴美子は怖くて歩けなかった。
父の手を探って握ろうとすると、父は、
「お前の手は小さすぎて、お父さんの手からすり抜けてしまうから、手首を握りなさい」
と言う。
言われた通りにすると、貴美子は安心して歩くことが出来た。
しかし、姉がジャンプして飛び越えた堤防の最後を、貴美子は怖くて飛ぶことが出来なかった。
すると父が、
「一度そこに座って、ゆっくり下りれば大丈夫」
と言う。そうやって貴美子は、無事下りることが出来たのだった。
走り去った姉の姿はもう見えない。
さっきまで手首をつかんでいた父の姿も、いつのまにか消えていた。
◆mist シーズン4、シーズン1、2、3のこれまでのお話は、こちらでお読みいただけます。
◆お読みいただきありがとうございました。シーズン5も、お楽しみに。