この冬、ひとりの女性がアート界の話題を席巻しました。その人の名は石岡瑛子さん。デザイナーとしての幅広すぎるほどの活躍を振り返る3つの展覧会(註1)と、評伝『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』(河尻亨一著 朝日新聞出版)の刊行、関連する番組やオンラインイベントなども次々と開催され、一種の旋風が起こりました。
1966年に彼女が20代で手掛けた資生堂のポスターは初期の代表作。今見ても鮮烈で超かっこいい。当時は店頭などから剥がして持ち去る人も多かったそう *前(註2)
新年から一つずつ展示を見始めた私も、3月になって最終盤に差し掛かったギンザ・グラフィック・ギャラリー(以下:ggg)の後期展示を観て、ぶ厚い評伝も読んで、ようやくコンプリート。いやー、石岡さん、すごい人でした。かっこいい! 偉大!
1938年生まれの石岡さんは、社会で活躍できる女性が稀有だった60年代半ばから、アートディレクターとして頭角を現し、PARCOや角川文庫の広告を大成功させた人。その後N Yに拠点を移すや映画や舞台の美術、オリンピックのユニフォームなどジャンルを超えて活躍。コッポラの映画『ドラキュラ』の衣装デザインでアカデミー賞も獲得した、世界が称賛する唯一無二のデザイナー。9年前2012年に、73歳で現役のまま惜しまれつつ亡くなられています。
私がリアルタイムでご活躍を目にしていたのはかなり前のことですが、少し知っていただけでも思わず知らず強く影響を受けたあの時代の空気を、今回の展示や本から思い出したので、少し振り返ってみました。
圧倒的な迫力を見せた『MORE』誌面の石岡瑛子さんの記事
私の彼女との出会いは、実は70年代末に読んでいた雑誌『MORE』でした。はい、今も20代女性に人気の女性誌『MORE』です。
中高生だった70年代後半〜80年代当時、大学生だった姉と共に読んでいた『MORE』はまだ創刊まもない草創期。当時の空気は「女性の自立」「キャリアウーマン」ブーム。誌面もそれまでの大人の女性向け「婦人誌」とは一線を画し、知的な勢いがありました。今、何度目かの流行になっている「フェミニズム」の風が、実はそこにビュンビュンと吹いていたんですよね。
その誌面でババーン!と巻頭から組まれていた特集などに、石岡瑛子さんが頻繁に登場されていました。当時彼女はPARCOの広告戦略などで注目の「時の人」でもあり、会社の書庫でその頃の誌面を見てみると、インタビュアーとして、寄稿者として、クリエイターとして、様々に登場されていました。
1981年3月号の『MORE』目次。巻頭企画に石岡さんの名が! 当時の世界的ベストセラー『第三の波』を著したアルビン・トフラー夫妻のインタビュー、ファッションの切り口も「生き方」を問うなどなど、当時の同誌、かなり攻めてます!
中でも石岡さんご自身が関わられた美術系の記事たるや、もう圧倒的で。
ある日教室でうっかり開いたページの大胆なビジュアルと厚みのある記事に心を奪われ、放課後もずっとその場で日が暮れるまで読みふけってしまったことも記憶に残っています。
見たことのない美しい作品と作家の半生を紹介するその記事は、上の目次写真にある81年3月号の巻頭企画で、タマラ・ド・レンピッカという女性アーティストの特集。その名前も絵もとても強く印象に残りました。PARCOで開かれた展覧会のための企画だったのでしょう。当時確か公園通りをタマラのビジュアルボードがジャックしていたような記憶もうっすら。(思い込みかしら・汗)
「うわー、これこれ!」とggg後期の会場で興奮した「タマラ・ド・レンピッカ」展のポスター。展示によれば連動して開かれた展覧会や画集も全て石岡さんが企画して実行されていたよう。当時の記事を見たら書いてあったのですが失念しておりました。記事によると発案者は当時のパルコ社長・増田通二氏だったそう *後
すごい女性の生き方を、すごい女性を通じて目撃した
もう一つ懐かしかったのは「ヌバ」。これも当時『MORE』で見て「すごい!」と驚いたもの。
『MORE』誌上での連続大展開の翌年に写真展や写真集の刊行と、石岡さんが見事なメディアミックスを実現した「NUBA」展。(写真左手)。91年にはレニのトータルな回顧展(同右手)も手がけた *後
スーダン奥地に住むヌバ族の、長い手脚の男性たちや豊かな曲線を描く艶やかなからだを見せる女性たち。彼らの暮らしを映した見事な写真は、『MORE』誌面から飛び出してきそうな迫力でした。私がレニ・リーフェンシュタールを知ったのもこの記事から。美貌の女優から映画監督になるも、ナチスに協力したと非難され表舞台から追われた激動の人生や、70 代で始めたスキューバダイビングに夢中という彼女のエネルギッシュさにも、写真と同じくらい度肝を抜かれました。
石岡さんご本人が同誌に企画を持ち込み、79年2月号から4号にわたる連載プラス、インタビューで計5号掲載されたレニの記事。巻頭エリアにカラーで写真を大胆に掲載した連載初回の2月号の表紙は、こんな感じでした
「タマラ〜」より先に手がけられたこの企画こそ、構想5年、レニに魅せられた石岡さんが直接交渉して展覧会と本と記事を企画し実現したもの。東京都現代美術館での展示には本人宛の石岡さん自筆の手紙(の下書き?)もあり、「雑誌MOREの記事も順調です」的なことが書かれていたのも見られて、個人的にめっちゃ胸アツ!
というのも『MORE』読者だった私は就職後『MORE』編集部に入り、10年以上そこにいたからです。ただ、私が配属された頃の同誌はすでに創刊から10年以上を経て、フェミな空気は残しつつも大部数のポピュラーな雑誌になっていました。ファッションはキャリア系よりカジュアル系が、読み物も芸術より芸能が主軸で、しかも社会はバブルでイケイケな時代へ。そして石岡さんは86年を最後にほぼ登場されていません。すでにN Yに進出し最先端を爆進する彼女に、日本の誌面も編集者も私のような女性読者も追いつけなかったのだろうなあ、とふり返って思います。
その後石岡さんはさらに大きなスケールで羽ばたき、世界の名だたるアーティストや企業、クリエイターを魅了して輝き続けました。
1987年、アルバムのアートワークでグラミー賞!を獲得したマイルス・デイビスのアルバム『TUTU』。実は私、このタイトル文字を手描きで描いたという、当時石岡さんのアシスタントをされていたデザイナーの本永惠子さんと、数年前にたまたま個人的に知り合う機会をいただきました。今回の展示に因んで石岡さんの情熱的で緻密なお仕事ぶりなどもうかがい、またまた胸アツに! *前
今も新しい作品、そして彼女の存在自体が女性にとってエンパワメント!
ただ、今思えば、身近に感じていた一時期があったおかげか、70〜80年代の石岡さんの作品や言動から私が受けとったものはとても大きくて、その後も彼女の影響は私たち世代以降の女性たちに脈々と続いているはず、と今回の展示を見て思いました。
キッパリと胸をつくコピー、多分初めて街場で正面から見たヌードのポスター、出てくる女性たちの潔さ、などなど。カッコよかったり、かわいかったり、大胆だったり、どうであれ、人に決められたり愛でられたりするためでなく自分の好きなようにしていいんだよね、と女性として肯定された感じがしたことを、あらためて思った次第。今見てもそう思えるし、何より彼女の存在自体が「エンパワメント」ですよね。
前掲の評伝によれば、石岡さんも一緒に半裸になって撮影したというポスター。当時ヌードを堂々と街中で見るなんて珍しいことでしたが、「裸を見るな、裸になれ。」という、撮影の過程そのままのコピー含め、ポジティブに感じました *前
そんなころからあっという間に○十年か経ってしまい、当時の気分もトンと忘れかけていましたが、彼女の作品を見て「この頃、これ見てドキドキワクワクしたよね!」と思い出せるのって、なんか良いもの。過去には見ていなくても、今見ておいて後年思い出すのもまたオツなものかもしれません。海外進出後の活躍の拡がりと突出ぶりも感動もの。会期はもうわずかですが、gggでの後期展示は開催中。足を運べない方には、YouTubeでの関連企画なども会期中は見られます。写真も豊富な評伝本も含めて、石岡さんのクリエイションの再体験や初体験を、ぜひ!
銀座7丁目、すずらん通りと交詢社通りの角にあるギンザ・グラフィック・ギャラリー。展示手法も大胆で楽しめます!
写真全て*後
註1
●東京都現代美術館「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」2020.11.14〜2020. 2.14(閉会)
●ギンザ・グラフィック・ギャラリー SURVIVE – EIKO ISHIOKA /石岡瑛子 グラフィックデザインはサバイブできるか
前期2020.11.1~ 1. 23 (閉会) 後期2021. 2.3~ 3.19(開催中)
註2 *印の写真は全て、ギンザ・グラフック・ギャラリーの同展で筆写撮影、同ギャラリーの許可を得て掲載しています。*前 は前期、*後 は後期の展示より
●『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』(河尻亨一著 朝日新聞出版)