「こうなりたい」自分を捨てないで!
戦況が悪化して、東京が大空襲に見舞われる約1カ月前の1945年2月、私が9歳のときに養父母とともに山形に疎開しました。その年の8月に終戦を迎えますが、私たちはそのまま山形にとどまりました。
戦後の生活は決して楽ではありませんでしたが、わずかな所持金と着物や帯などを食料に換えたり、農作業を手伝うなどしてなんとか暮らしていました。
小学生の頃の私は歌うことが大好きで、まだ東京にいた小学2年生のとき、クラス代表としてコーラスのソロに選ばれたこともあります。自分の声が気に入っていて、山形の学校でも休み時間や登下校のときによく大きな声で歌っていました。標準語が話せる私は、学芸会の主役に抜擢されるなどして、人から脚光を浴びることの快感を得るようになりました。
そんな山形の生活にも慣れてきた頃、養母である八重子が脊椎カリエスになり寝たきりになります。病院に入院させるお金がなかったので、自宅で療養していました。
脊椎カリエスは結核菌が脊椎へ感染し、背骨が痛む治療困難な病気です。当時は伝染するといわれていたので、私にうつさないようにと養母の介護は養父が引き受け、私は食事の支度などの家事と農家の手伝いをして食材の調達を一手に担いました。
中学の頃から農村の青年たちと演劇サークルを作り、脚本を読んだり、舞台装置や衣装など、仲間とひとつのものを作る楽しさにのめり込んでいきました。そしてその演劇サークルは自分の町や隣町でも公演を頼まれるようになり、私が山形を離れる20歳まで続きます。
それぞれが得意分野を生かして、舞台の小道具や衣装を作ったり、照明や音響を考えたりしました。次第に私は舞台で演技をするほうではなく、裏方、特にどうやったらおじいさんやおばあさんのように見せられるか? 病気でやつれた感じが出せるか? という役作りのためのメイクアップに興味を持つようになりました。
舞台に夢中になったのは、今考えると、歌舞伎の芸養子になる予定だった実父の素質を受け継いでいたのでしょうか? 父は人前で話をするのが得意でしたし、私が子どもの頃、よく講談に連れて行ってもらったことも影響しているかもしれません。
私はいつしか、「東京に行って舞台のメイクアップの勉強をしたい!」という夢を抱くようになりました。しかし、家は貧乏で親を置いて東京に出る余裕などありません。それをよくわかっていました。
この頃は日々の生活に精一杯で、自分の未来を考える余裕などありませんでした。現代においても、それぞれの年代ごと、その人の環境ごとに試練は尽きず、先が読めなくて悩んでいる人が多いことでしょう。
でもね、そんなときこそ、自分の直感を信じて、「こうなりたい」「こんな未来をつくりたい」というビジョンを強く持ってほしいのです。そして、それに向かって今できる一歩を踏み出してください。
だって、私がこのときに抱いたメイクアップへの夢は、後に実現することになるのですから。どうぞ、なりたい自分を捨てないでください。理想の未来を描くことに、年齢は関係ありません。
幸せの尺度は人それぞれ。人と比べてはいけない
山形での生活は貧しく、私は高校生になると母校の小学校での給仕の仕事をして、一家の家計を支えるようになりました。その頃、実兄とは時々手紙のやり取りをしていましたが、実母はどこでどうしているかもわからない状態でした。
この写真は、その頃の私です。
昼間は小学校の給仕、夜は仲間と芝居の練習、休みの日は農作業の手伝いと、忙しい日々を過ごしていました。
当時の山形の農村では子どもは家の仕事を手伝うのが当たり前のため、農閑期に高校の授業を集中的に補習する制度がありました。そのため、一家を支えて働いていた私もなんとか卒業することができました。
そして私が18歳のときに8年の介護の末、養母が亡くなりました。脊椎カリエスがうつることを恐れて、葬儀には親戚も近所の人も誰も来ませんでした。
私は葬式の前夜に呉服屋で反物を買い、白装束を縫って着せ、美しかった養母の面影を忘れないようにと心をこめて死化粧をしました。
町の中にも火葬場はありましたが、脊椎カリエスの感染を避けるために山の中にポツンとある火葬場まで遺体を運ばなければなりませんでした。
当時は喪主である養父は家に残る習わしがあったため、私と養母の弟の二人で夜ひっそりとリヤカーに乗せて運びました。そして自分たちで薪をくべてひと晩かけて焼きました。翌朝、養母の弟は役場に向かい、私は小さな骨になった養母を骨壺に納め、それを抱えて4㎞ほどの道のりを一人で帰ったのです。
両親の離婚、実父の死、戦争、疎開、極貧生活と養母の介護。一家を支えるために10代にして働かなければならなかった境遇。そして養母の死…。
こうした次々に起こる生活の変化に、周りの大人からはよく「かわいそう」と言われました。
他人に言われて初めて「私ってかわいそうなんだ」と気づきました。それまで、自分がかわいそうだとも、不幸だとも思ったことがなかったのです。子どもにとっては今の環境がすべてであって、ほかの人と比べるすべはありませんから。
ただ一度、仕事をせずに学校の勉強やお芝居の練習に没頭できたらどんなに楽かしら…と、少しだけ人をうらやんだことがあります。でもね、そう思ったときの鏡に映った自分の顔がとても醜かったのです。それ以来、二度とそのような感情を抱くまいと心に誓いました。
他人の人生をうらやみ、嫉妬する顔は本当に醜いものです。
人はどうしても自分と他人を比べて幸せを測りがちです。他人のほうが楽しそう、いい人生を送っている、成功している、それに比べて私は…と考えてしまいます。そうした妬みの感情は心に負のスパイラルを生みます。
確かに私の人生は普通ではないかもしれない。でも、それが私に与えられた人生だと受け入れました。もう「普通といわれる人生」と比べるのをやめようと決心したのです。
そもそも、幸せは人と比べて決めるものではありません。
この頃の私は貧乏でしたが、だからこそ豊かな日本の四季の移ろいや、季節ごとに異なる自然の美しさを知ることができました。私は十分に幸せでした。
特に若い頃は、人と比べたり、妬んだり、恨んだりといった負の感情を抱くことも多いかもしれません。私だって時には嫉妬する気持ちが湧くこともあります。そんな醜い感情が湧いたときには、まず身のまわりの小さな幸せを探してみてください。きっとたくさん落ちているはずです。
【お話しいただいた方】
1935年2月24日生まれ。コーセーで長年美容を研究し、1985年初の女性取締役に就任。56歳で起業し「美・ファイン研究所」、59歳で「フロムハンド小林照子メイクアップアカデミー(現フロムハンドメイクアップアカデミー)」を設立。75歳で高校卒業資格と美容の専門技術・知識を習得できる「青山ビューティ学院高等部」を設立し、美のプロフェッショナルの育成に注力する。84歳で設立した女性リーダーを育てる「アマテラスアカデミア」を自らの使命とし、現在はふたつの会社の経営に携わっている。著書に『これはしない、あれはする』(サンマーク出版)、『なりたいようになりなさい』(日本実業出版社)など多数。
イラスト/kildisco 取材・文/山村浩子