故ダイアナ妃のあの「衝撃」を、私はFMラジオの速報で知った。取材で出会い、ひと目で大ファンになった、ある美人パーソナリティの番組でのこと。耳にするだけで全身が浄化されるような、日曜日にふさわしいクリーンでみずみずしい声、その軽妙な語りに背中を押され、「これからどこに出かけよう?」とワクワクしていた、まさにそのときだった。突然、別人かと思うほどのトーンとリズムに、実際、言葉を理解するコンマ数秒前にはすでに、これはただ事じゃないと悟ることができた。そして、心臓がびくんと大きく跳ねたのと同時に、脳裏をかすめたこと。それは「声って、すごい」。声には、言葉を超えて「何か」を伝えるとてつもない力があると思い知ったのだ。
後日、彼女にお目にかかったとき、本意ではないかもしれないけれど、と前置きをしながら、その日感じたことを伝えてみた。すると…?
「実は、ね。あのとき、プロとしてというより、人として、どう伝えるべきなのかを、すごく問われた気がしたんです」
今まで積み重ねてきた経験と、それによって培われた感性と。両方を声だけで試される気がしたのだと彼女は言った。熟考した末、できうる限りの哀悼の意を込めたあのトーン、あのリズム…。声に、私たちの想像をはるかに超える思いが詰まっていたことに、改めて気づかされた。そうか、この人が美しいのは、そのためだったんだ。彼女の声を創っているのは、人としての奥行きと幅広さ。声が心にすーっと溶け込んで、全身が浄化されるように感じていたのは、彼女が人の弱みや痛みを知っているからこそ。そして確信した。声が美しい人が、本当に美しい人なのだって。
声には、性格から機嫌まで「人となり」が表れるとは、よく言われること。しかもそれは、年齢を重ねるほどにより顕著になるのだと、私たちは知っている。以前、ある脳科学者に「いつも笑っている人の顔は『笑い顔』に、いつも怒っている人の顔は『怒り顔』になる。顔は表情を記憶するから」と聞いたことがあるけれど、声もきっと、同じなのだろう。持って生まれたものでありながら、毎日毎日、意思や感情を乗せて発せられるもの。だからこそ、その人の毎日がありのままに刻まれていく。包容力も好奇心も、品格も知性も、謙虚さも凛々しさも、そして健やかさも幸せも、いちいち声に記憶されていくのだとしたら…? だから、穏やかな時間を積み重ねている人の声は、どんどん穏やかになり、深い時間を積み重ねている人の声は、どんどん深くなる。そう、声は顔同様、自分自身で「創る」ものだったのだ。
ちなみに、「その人が腕を組んでふんぞり返っていることも、椅子の下で脚をぶらぶらさせていることも、声を聞けばわかる。声は噓をつかないんです」とは、ラジオ番組のプロデューサーの言葉。また、日本を代表する帝国ホテルの電話オペレーターたちは、声でしか私たちに触れないのにもかかわらず、電話機の横に鏡を置いて、口角は上がっているか、目元は優しく穏やかか、と確かめながら、心からの笑顔で接客しているという。態度の善し悪しもプロ意識の高さもわかる。声はきっと、私たちの本質。ごまかせない、隠せない。一朝一夕には、どうにもならない…。今一度、考えたいと思う。私は心を込めて声を発しているだろうか、美しい声を創っているだろうか、と。
写真/興村憲彦