明治政府が計画した洋風建築による官庁街建設を推進するため、レンガを大量に供給する民営工場として、「日本近代経済の父」である埼玉県深谷市出身の実業家「渋沢栄一」らが中心となって設立された「日本煉瓦製造株式会社」。
ドイツから導入した当時の最新式「ホフマン輪窯」を使って、日本の発展を支えたレンガを製造していました。
深谷の工場は明治21年(1888年)に操業開始、そして時代の波に押され、平成18年(2006年)約120年の歴史に幕を下ろしました。
工場の一部として「ホフマン輪窯6号窯」「旧事務所」「旧変電室」が残り、専用線であった「備前渠鉄橋」とともに平成9年(1997年)5月、国重要文化財に指定されました。
【日本煉瓦製造株式会社 旧煉瓦製造施設】
以前、東京駅そっくりな深谷駅の記事でもご紹介しましたが、東京駅や迎賓館(旧赤坂離宮)の赤レンガもこちらで製造されたものです。
誠之堂・清風亭の記事でもご紹介しましたが、こちらで製造されたレンガが使われていることから、気になり見学してきました。
旧事務所は、明治21年(1888年)に建てられ、レンガ工場の建設やレンガ製造の指導にあたったドイツ人煉瓦技師チーゼの住居兼事務所として使われていたそうです。
ピンクのオシャレな建物の基礎部分はレンガで、木造平屋建て瓦屋根の西洋風建築。地元の人々からは「教師館」「異人館」の名で呼ばれていました。
明治22年(1889年)、チーゼのドイツ帰国後は会社の事務所となり、昭和53年(1978年)から現在は史料館として使われています。
旧事務所の内部の天井と壁は漆喰塗り、床は総板張り。
展示室には、渋沢栄一らの写真やレンガ工場で働く人の写真、実際に製造されたレンガなどが展示されています。
敷地内模型がありました。
最盛期には6基の窯を稼働させ、労働者数は1,000人以上、敷地内には、社宅や保育園まであり、この田舎にちょっとビックリで相当大きなレンガ工場だったことが分かります。
こちらはドイツ人ホフマン考案の煉瓦焼成窯「ホフマン輪窯6号窯」です。
明治40年(1907年)に建てられ、昭和43年(1968年)までの約60年間、多くのレンガを焼いてきました。
操業中には月産65万個の製造能力を持ち、東京駅や迎賓館(旧赤坂離宮)の赤レンガもこちらのホフマン輪窯6号窯で製造されました。
ホフマン輪窯6号窯の見学は、保存修理工事のため、平成31年(2019年)2月から通常見学を休止しているので見学の再開時期は令和6年(2024年)頃の予定です。
レンガは、以前は全国各地で製造されていましたが、製造所ごとに刻印があり、こちらで製造されたレンガは「上敷免」(じょうしきめん)印。
従来から瓦製造が盛んで、レンガ素地用の良質な粘土が採れること、また、小山川から利根川に下り、江戸川を経て隅田川を通り舟で東京方面へレンガを運ぶことが見込めることから、渋沢栄一は実家近くの上敷免村を工場建設地として推薦しました。
明治28年(1895年)に輸送力向上を目的としてレンガ工場から深谷駅までの約4.2kmにわたって日本初の専用鉄道が敷かれたことを知り、鉄道ファンのわたしは興奮しました。
路線は廃線になり、現在は、歩行者と自転車が通れる遊歩道「あかね通り」になっています。
旧事務所の裏手にある旧変電室は、明治39年(1906年)に深谷市内で初めて電灯線を引き、変電室として建てられました。
間口5.83m、奥行4mの煉瓦造の平屋建て、切妻屋根、コロニアル葺。
内部の壁は漆喰塗り、床は板張り。
外観のみの見学で内部には入れません。
残念ながら、ホフマン輪窯6号窯の見学はできませんでしたが、政府と渋沢栄一と深谷市とレンガの歴史を知ることができて、とても貴重な見学でした。