こんにちは。寺社部長の吉田さらさです。
今回は、滋賀県甲賀市の山中にあるMIHO MUSEUMで開催中(2024年9月28日〔土〕~12月15日〔日〕)の秋季特別展「うましうるはし日本の食事」をご紹介します。食事と書いて「たべごと」と読む。これは一般的な読み方ではなく、「食べること、料理をすること」に込められた日本人特有の精神文化を表す特別な言葉です。
近年、和食の歴史や器の歴史に関する展覧会はいくつか行われましたが、日本人の食事の歴史を辿る視点はとても斬新。どんな内容なのか興味津々でうかがいました。
この美術館は建物も見どころ。パリのルーヴル美術館にある有名なガラスのピラミッドを設計したI.M.ペイの作品です。エントランスの屋根の部分は日本の古民家を思わせます。内部も光が満ちてとても美しい。
展示の最初は、日本人が古くから食べてきた食物に関するものです。基本は米、そして川や海で獲れる魚。時にはイノシシなどの獣肉を食べることもあったようです。
田植と刈り取りを主に、稲作をめぐる四季を表現した屛風。日本の食事の基本はやはり米ですね。
鵜飼、鮎魚梁、蜆取、掛網、鮪網漁、鯛網漁、海女の漁など、海と川での漁の様子が細かく描かれていて興味深い。わたしたちの祖先は、古代から多種多様な方法で魚介類を獲り、さまざまな調理法で食べて来ました。
日本では古くから、神様にお供えした食物や酒のお下がりを皆で集まっていただく宴が行われてきました。それを「神人共食」(神と人が飲食をともにする)と言います。神をもてなす食文化として完成したものが、神社の神饌(しんせん、みけ)です。神社によってその形式はさまざまです。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)は平安時代から行われている賀茂祭(葵祭)で有名です。5月15日に本殿の内陣、外陣に神様への神饌がお供えされると同時に、外からいらっしゃる神様へのおもてなしとも考えられる庭積神饌が用意されます。この唐櫃に十三種もの食べ物が収められます。
魚介類、煮豆、野菜などが何段にも分けて収納され、一番上に干鮭、アワビ、塩、スルメなど。その下の六段に渡って、ごまめ、飛び魚、煮染などが収められます。日本の食材の豊かさが伝わってくるすごいご馳走ですね。
仏教寺院でも独自の料理が発展しました。神道では、獣の肉などを避けることが多いですが、魚介類は使われます。しかし仏教では動物性の食材は禁じられているので、精進料理になります。
禅宗の寺院で修行僧が使う食器。その使い方には細かな決まりがあり、食べ方の作法も厳格です。精進料理も僧侶が作り、これにもさまざまな決まりがあります。禅宗においては、食事を作ること、食べること、自分の食器を片付けることなど、すべてが修行です。そしてその一部は、家庭での食事の作法にも受け継がれています。食べる前に手を合わせて「いただきます」、食べ終わったら「ごちそうさま」と唱えるのも、禅宗の食事作法の影響とも言われています。(※これは、禅宗寺院で食事をした時に僧侶の方がおっしゃっていたことなので、「とも言われている」と修正させてください)
室町時代には、武家の儀礼に基づいて客人をもてなす「本陣料理」という形式が生まれ、江戸時代に発展しました。ひとつひとつのお膳に料理を乗せてずらりと並べるもので、飲酒も伴います。現在はほとんど残っていませんが、テレビドラマなどで昔の結婚式の様子が映ると、よくこの形式の宴会をしています。
酒好きの公家と飯好きの僧侶が、酒と飯のどちらが良いかを言い争い、それを武家の人が仲裁するという面白い物語を絵巻にしたものです。登場人物の前にお膳があり、何やら美味しそうなものを食べています。
本膳料理に使われたお膳と器。見事な蒔絵ですべて揃っています。
安土桃山時代、茶の湯の流行に伴い、茶席でいただくための料理である懐石料理が生まれます。茶の湯の「懐石」は、歴史的には「会席」と呼ばれることもあったため、混同されることがありますが、茶の湯料理の「懐石」と今日よく知られる宴会料理の「会席」は別のものです。
茶の湯料理の「懐石」は、元来、無駄がないシンプルなもので、発展の中でメッセージ性や季節の表現などの趣向が加わったり、多彩な器が使われるようにもなりましたが、今日でもその基本は一汁三菜です。今日知られる宴会料理の「会席」は、茶の湯料理の「懐石」から発達したのではなく、前述の「本膳料理」からの発展と考えられています。
茶の湯は器の鑑賞も重要な要素であるため、懐石料理の器も芸術的で独創性が高いものが多いです。ユリの花をかたどった立体的な器は料理を載せると一段と映えます。
茶の湯の発展に伴い、和菓子も多彩になりました。ユニークで美しいお菓子のお手本と木型です。
長く平和が続いた江戸時代には、あちこちに行楽に出かけるなど、庶民たちにも生活を楽しむ余裕が生まれました。
寺社周辺や祭などではあちこちで食べものが売られ、人々が食べながら街歩きを楽しみました。今と変わらないお出かけの様子です。
江戸の街ではさまざまな屋台が出て、寿司、てんぷら、蕎麦、団子など、今も愛される食べ物が売られました。
何と美しい絵皿でしょう。食物を盛るよりも飾りとして用いられたのでしょうか。
明治になり、西洋式の食文化が日本にも流入してきました。そんな中、近代化を取り入れつつも、日本料理を現代につないだ2人の偉人がいます。北大路魯山人と湯木貞一です。
北大路魯山人は料亭の経営をはじめ、やがて料理を盛るための器を自ら作るようになります。伝統的な様式を踏まえながらも現代的なセンスも感じる器たちです。
大阪吉兆の創始者の湯木貞一は、今も親しまれる松花堂弁当の発案者としても知られます。江戸時代、京都の石清水八幡宮の僧であった松花堂昭乗が、近隣の農家で使われていた仕切りのある四角い箱を絵具箱などとして使っていました。それを見た湯木貞一が、料理を入れる器としてその箱を利用することを思いつきました。それが松花堂弁当の始まりです。
日本の食事を歴史の流れに沿って見て来ると、いかにわたしたちの食文化が多彩で優れたものなのかがわかってきます。これからもこの素晴らしい文化を大切に守っていければいいですね。
秋季特別展
「うましうるはし日本の食事」
2024年9月28日〔土〕~12月15日〔日〕
MIHO MUSEUM
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