まだまだ続きそうな暑さに加えて、天気の急変も気になるこの季節。
快適なのは室内!ということになりがちなので、「読書で気分転換を」と考える方も多いのではないでしょうか。
そんなときオススメなのが時代小説。
夏の風景、例えば「縁側に坐って蚊遣りの杉葉を焚いている」みたいな描写を読むと、どこからかその香りが漂ってきて、気分が変わるような気がするのです。
時代小説には根強い人気があり、ジャンルも作風も百花繚乱状態ですが、私が好きなのは歴史上の出来事や人物をもとにしたフィクション。
真実かどうかは別として、資料を読み込んだ作家が「事件の背後にはこういう事情があったのでは」「この人物は意外とこんな性格だったのかも」という見方を示した小説はとても新鮮!
フィクションの部分も多いので、純粋にエンタメとして楽しめるだけでなく、かつて歴史の授業で習ったことが思い出されて、お役立気分が味わえるのもうれしいものです。(笑)
そんな歴史フィクションの中で今回ご紹介したいのは、朝井まかてさんの『阿蘭陀西鶴』。
エンタメ小説の祖とも言われる江戸時代の浮世草子作者・井原西鶴の人間像を、盲目の娘・おあいの視点で描いた小説です。
実は、先ほどの「縁側に坐って蚊遣りの杉葉を焚いている」という文章も『阿蘭陀西鶴』からの引用。
また、西鶴に盲目の娘がいたことは史実のようです。
「盲目の娘の視点で描いた小説」とは不思議な感じもしますが、おあいは目が不自由ながら亡き母に教え込まれた家事を見事にこなしているくらいなので、それ以外の感覚――聴覚・味覚・嗅覚・触覚がすべて鋭い。そして何より賢い。
父親の姿は見えなくても、わずかな気配でそろそろ帰宅することがわかるし、声の調子などで考えていることもなんとなくわかるのです。
もちろん父親以外の人物に対しても彼女の観察力は発揮されますが、反面気づかなくてもいいことまで察知することも。
それゆえこの物語には複雑な味わいが生まれますが、基本的におあいは自己憐憫におちいるような女性ではありません。
亡き母と同じように家事を切り盛りし、仕事にしか興味がない父を助けることが自分の役割――そう心得ているから、控えめでたくましい。
ただ、おあいの父親に対する見方はかなりクールです。
それは、母の苦労を知っているから。そして、母が亡くなったあと、父は弟ふたりを躊躇なく養子に出したから。
控えめなおあいとは対照的に、西鶴は自分勝手で“ええ格好しぃ”で“自慢たれ”という点も、彼女の見方に関係があるようです。
ここで描かれる西鶴は、俳諧から浮世草子、浄瑠璃と表現の場を広げ、独自の面白さを見出して精力的に書きまくる一種の天才。
お金に無頓着なので、おあいのように近くにいる人はさぞかし大変だろうと思うものの、小説の登場人物としてはとても魅力的です。
当時将軍に就任したのは、生類憐みの令を発し、親への忠孝を説いた徳川綱吉ですが、彼も西鶴の手にかかると、
「……今の公方はんも初めはえらい賢いお人や、出来物らしいてな評判やったけど、親に孝を尽くせやの、いつも行儀ようしてなあかんやの、ほんまに厄介やな。今度は飼うてる犬猫、鳥まで大事にせぇて、ふざけてんのか」
ということになるのだから、ちょっと痛快ですよね。
ちなみに、朝井まかてさんには綱吉とその妻を主人公にした『最悪の将軍』(集英社刊)という小説もありますが、これもオススメ。
この夫婦、特に綱吉像が一新されること間違いなしです。
話は戻りますが、西鶴が『好色一代男』『本朝二十不孝』など、庶民を主人公にした庶民のための読み物を書いたのは、ひとつにはお上への反骨心があったからだと思います。
それに加えて、というかそれを上回るほど大きな動機になったのは、庶民の喜怒哀楽に共感し、庶民が生き抜くことの厳しさに無常感を抱いたからではないか……そう思わせる数々のエピソードも、本作の読みどころになっています。
そんな西鶴にも俳諧では松尾芭蕉、浄瑠璃では近松門左衛門といったライバルが出現。
時代の流れや年齢を重ねることも、じょじょに西鶴の内面を変えていきます。
娘のおあいも同様で、特に彼がようやく書き上げた『好色一代男』の朗読を聴いてからは、心境や父親の見方に変化が訪れて……。
物語の最後に、西鶴とおあいが長い時間をかけて到達した関係性を表すシーンがありますが、それがまたあたたかくて、切なくて。
「これぞ上質なエンタメ小説!」と思いながら、本を閉じたのでした。