かつて自分に起きた出来事が、当時読んだ本の印象と合わさって、今も特別な余韻を残している……みなさんにはそんな経験、ありませんか?
私にとってそのひとつが、4年前のアクシデントです。
ある土曜日、自転車でクリーニング屋さんに行こうとしていたら、路地から飛び出してきた6、7歳の男の子(彼も自転車)と危うくぶつかりそうに。
どうにか衝突を避けて道路に倒れ込んだものの、右の手のひらを思い切り地面についてしまって。
あまりの痛さに病院に行くと「手首の骨がちょっと折れていますね~」とのこと。手の甲から肩までギプスで固められた私は、いきなり不自由な生活を送ることになったのです。
リハビリを終えてほぼ元通りになったのは、3か月後でした。
パソコンのキーボードがうまく打てない(原稿が書けない)、着られる服が限られる、何をするにも時間がかかるなど、利き手だけに不便は多々発生しましたが、折れてしまったものはしかたがない。
とりあえず「読書にいそしめるのはラッキー」と思うことにして、せっせと本を買い込みました。
そんなとき読んだのが、川上弘美さんの短編集『猫を拾いに』。
ひとことで言えば不思議なお話が多く、読んでいる最中はややからだが宙に浮いたような気分に。
最後のページにたどりついたときは「生きていくって一筋縄ではいかないものだ」という思いがしみじみこみ上げてきて……。
なんて間が悪いんだろう、私。
なんて反射神経がないんだろう、私。
ガチガチに固められた右腕を見てそう思いながらも、衝突しそうになった男の子が無事だったことに安堵する気持ちが大きくて、じょじょに「ま、いいか」という心境になっていった――確かケガの直後は周囲にそんな説明をしていたと思います。
もちろんそれは嘘ではありませんが、この不自由さはほとんどの人にはわからないというさびしい気持ち、「アクシデントが起きるのも人生」という妙に達観したような気持ち、ただただ間抜けな自分がおかしい気持ちなど、たくさんの感情が入り混じっていて。
自分でも整理できない混沌とした心境を、『猫を拾いに』に出てくる風変わりで豊かな感性の持ち主たちならわかってくれるのではないか。
なぜかそんな思いにかられ、自分が特別な読者であるような気さえしてきたのです。
これってまったくのひとりよがりなんですけど。
その『猫を拾いに』の内容ですが、「不思議なお話が多い」と思った最大の理由は、人間以外の生き物がたびたび登場するからです。
たとえば、自分の誕生日会にやってきた青年が地球外生物だったり、男の子と“小人”が長きにわたり友情を育んでいったり。
もちろん人間同士(!)のお話もたくさんあって、ひとつひとつが独特の雰囲気を醸し出しているのですが、中でも私の心にズシンと響いたのは「ぞうげ色で、つめたくて」でした。
これは東京で暮らす衣世(きぬよ)と京都で暮らす丹二(たんじ)の、二十年近い恋のお話。
衣世はかつて丹二の兄と結婚していて、弟と妻の関係に気づいたその人は一年後釣りの事故で亡くなってしまうのです。
関係に気づかれたあと、衣世は兄とも弟とも別れていたのですが、兄が亡くなって以降毎年命日の月に京都を訪れるように。
その際弟の丹二と会うのですが、場所は必ず喫茶店でしかも昼間という健全さ、というか律義さ。
ともに独身で自由に恋愛できるのに、ひとつの死がもたらしたものが大きすぎて、身動きがとれなくなったふたり。
こういった経緯を簡潔に、流れるように描く川上弘美さんの筆力にただただ感嘆すると同時に、人生につきまとう孤独と悲しみ、そして消えることのない生命力が静かに感じられました。
とにかく、とても短いお話なのに、長編を読んだかのような手ごたえがあるのです。
庭のキンモクセイが香りを振りまく季節になると、これからもきっとケガとこの本のことを思い出すでしょう。
トホホな出来事でしたが、おかげでいろいろな感情を味わうことができたし、本をたくさん読むことができたし、地道にリハビリを続けることの大切さも知りました。
痛かったり不自由だったりするのはもうゴメンですが、あの経験はまんざらでもなかったかなと、今は(負け惜しみまじりながら)思っているのです。