雑誌やテレビで“旅もの”を見て、「あ~、ここ行きたい!」と思う割にはなかなか行動を起こせない私。勢いで気軽に行ける距離だとそうでもないのですが、海外となると恥ずかしながらこの10年で1回だけ。
もちろん、それなりの理由がなかったわけではないのですが、基本的に腰が重いんですね。英語がダメなこともあって、海外へのあこがれは薄いほうかも……自分でも残念なのですが。
だから、外国にまつわるエッセイもそれほど読むほうではありませんが、最近出会った『それでも暮らし続けたいパリ』は異国で暮らす日本人の体験記として、比較文化論として、とっても面白かった!
「あと1章読んだら買い物に出かけよう」と思いながらページをめくり続け、昼食をはさんでそのまま最後までいったほど。
エッセイでこういう読み方をしたのは久しぶりでした。
多分その理由のひとつは、著者がパリを賛美しすぎていなかったからだと思います。
「パリの街も、そこで普通に生活している私も素敵!」というテイストではなく、すぐれた観察者の目線で描かれていたから、読みながら納得し、興味が深まっていったんですね。
タイトルに「それでも」という言葉があるくらいだから、翻訳者であり、フランス人シェフを夫に持つ著者にとってもパリは手ごわい街。10年以上暮らしていても、たびたび驚きや違和感に見舞われるようです。
例えば年々減りつつあるとはいえ、街の風物詩と言われるくらい、パリには犬のウンチがいっぱい!
「犬のウンチを踏んで、滑って転んで怪我をして病院に担ぎ込まれる人は、なんと、年に600人以上もいるという!」のだから、驚きを通り越して「なぜ飼い主が処理しないの? なぜそれが大問題に発展しないの?」と、不思議に思えてきます。
これについて著者が友人に尋ねると
「中世のフランスでは、人の糞尿でさえ家の窓から通りに投げ捨てていたんだから。誰が犬の糞なんて拾うもんか」
と言う人もいれば、
「パリには街の清掃というれっきとした仕事があるの。その人たちから仕事を奪っちゃいけないのよ」
と言う人も。
著者はなるほどと思うものの、リードを離して“ひとり散歩”させる飼い主が多いからでは、と推察。
ではなぜ犬自身にとっても周囲にとっても危険に思える“ひとり散歩”をさせるのかと考えた結果、フランス人の気質というか、ある種のプライドに思い至ります。
“犬のウンチは困るけど、こういう考え方をする人たちだからなのか”とわかったことで、大目に見てあげたいと思うようになった著者。
“自分とは違う他者を理解できる力”って、海外暮らしには必要なんだろうな、とつくづく感じました。
ここでちょっと思い立って、半年ほど前から南米で暮らす家族のひとりにLINEをしてみることに。
「そちらに行って驚いたことある?」と訊くと「今、料理中にガスタンクが空になって、業者を待っているところです。なかなか来ない! お腹がぺこぺこ!!」との返事が。
(結局、その日業者は来なかったとのこと。電話するたびに「今、向かっています」と言われたそうです)
これもまた、日本では起きそうもない出来事ですよね。
話はそれましたが、このエッセイには他にも、
卒倒しそうに長いディナー
火のついた煙草のポイ捨て
よその車にぶつけても平気な路駐の実態
など、「ええっ!?」と言いたくなるような話があちこちに。
もちろん、パリっ子の気概やおしゃれ心、独立心を感じさせるエピソードも盛りだくさんで、何事も生ぬるい自分にびしっとムチをいれられた気もしました。
理解できるけど真似はできないこと、理解できるし真似もしたいこと、理解も真似もできないこと。そんな基準でひとつひとつのエピソードを読んでしまうところも、この本の面白さかもしれません。
次のページではパリと双璧の“手ごわい街”京都についての本をご紹介します。
“フランス人の自己中心的な考え方ってなかなか奥が深い……”と感じつつ本を閉じたのですが、“自己中”“奥が深い”で思い出したのがその直前に読んだ『京都ぎらい』。
これは新書大賞2016に選ばれた本で、著者の井上章一さんは日本の建築史や意匠論が専門の学者。京都市右京区の花園で生まれ、同じく右京区の嵯峨で育った方……私から見れば生粋の京都人です。
それなのに井上さんは、京都市で生まれ育ったと自己紹介することにためらいを覚えるのだとか。
なぜかというと“京都の街中である洛中で暮らす人々にとって、嵯峨は洛外の田舎だから”。
今の若い世代もそういう意識を持っているのかはわかりませんが、1955年生まれの井上さんは学生時代に強烈な経験をしています。
それは、京都大学建築学科のゼミで町屋の研究をしていたときのこと。調査のため、町屋建築で有名なお宅を訪問した彼は(もちろん事前に許可をとっています)、当主に「君、どこの子や」とたずねられます。
井上さんが「嵯峨からきました。釈迦堂と二尊院の、ちょうどあいだあたりです」と答えると、当主はなつかしいと言いつつ
「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」
これって、すごいセリフですよね!?
「くみにきてくれた」と感謝をあらわしつつ、「ウチは田舎モンとは格が違う」と言っているも同然というか、思い出を述べただけとも受け止められる言い方をわざとしている?というか。
このくだりを読んだとき「これが“いけず”ってやつ? いやな感じ!」と思わなかったとは言いませんが、ちょっと感心するような気持ちも。つまり「こういうセリフって、歴史や文化がしみ込んでいる家の人じゃないとサラリと口にできないよね」と感じたのです。しかも言い方に匠の技みたいなものがある、と。
もしも私がいけずな目にあったら、どんなシチュエーションでも相当めげると思います。実際、若き日の井上さんも最初は「自分に落ち度があったせいだろうか」と悩んだそうです。
でもやがて彼は、自分も町屋の当主同様地元に対する特別な意識があること、さらにそこには他の地域と比較しての優越感があることに気づいていく……。
読みながら私自身にもそんな部分がないわけではないと気づき、ドキッとさせられました。
もしかしたら地元愛って、どこか自己中心的なものなのかも。そしてパリっ子の自己中意識にもそういう部分があったりして?
フランス人と京都人の自己中意識の共通点とは、そして違いとは……2冊を読み比べてそんなことを考えてみるのも面白いかもしれません。