オフィシャルな同窓会にはたまに行く程度ですが、気心の知れた昔の仲間との集まりには、なるべく顔を出すようにしています。
単純に「会いたい! しゃべりたい!」と思うからですが、「本性はもうバレちゃってる」という安心感もあるのでしょうね(笑)。
多分それはお互いさまなので、トークは自然とざっくばらんなものになりますが、最近みんなの話を聞きながら「そういう人生を歩んできたんだ……」としみじみ感じ入ることが多くなりました。
考えてみれば何十年ものつきあいだから、それぞれにいろんなことがあって当然ですよね。
大病を克服した人、辛い別れを経験した人、一度はあきらめた夢を再び突き進んでいる人。経緯を聞いて、かける言葉を失ったこともありますが、どの人からも感じるのは「今、自分にできることは?」と冷静に考える力が次へのステップになっている、ということです。
最近読んだ時代小説『九十九藤』もまた、そんなことを痛感させてくれる1冊でした。
主人公は日本橋の口入屋・冬屋(かずらや)の女主人・お藤。口入屋とは今で言う人材派遣業で、江戸時代は主に武家の奉公人を世話する商売でした。
お藤は「商いは人で決まる」が口癖の祖母に口入稼業を仕込まれて育ちますが、度重なる不幸や父親の放蕩のため、天涯孤独の身に。女衒(女を遊女屋などに売る生業の人)に連れていかれそうになりますが、必死に逃げ、縁あって江戸で働き始めます。
そしてたどり着いたのが、口入屋の女主人という仕事だったのです。
つらい経験を通して、人を見る目やちょっとやそっとでは動じない力を身に着けたお藤。口入屋になるにあたり着手したのは、仕事の改革でした。
彼女は奉公人の受け入れ先を武家から商家に変え、台所などの下働きをする男を斡旋するほうが利になると判断。
しかも、心得のない男たちに短期間で徹底した家事指南をして商家に送り込むというアイディアを思いつき、大胆に実行していきます。
言ってみれば、お藤は江戸時代の女性起業家。従来のやり方にとらわれない目を持っていたからこそ、新しいニーズや方法を見つけることができたのです。
しかも時代は、武士社会の行き詰まりが明らかになった頃。武家より商家のほうが財力があり、支払いも見込めるというのは、まさに冷静な考え方でした。
このあたり、物語の流れと歴史的背景がうまくミックスされ、「なるほど!」「そうか!」の連続。自然にそう思わせるところが、作家の力量なのでしょうね。
ところが、物語はそれで“めでたしめでたし”とはなりません。
従来の口入屋のやり方を変えた、ということは、やり方を変えられない人たち――つまり裏で甘い汁を吸い、儲けていた大物口入屋たちの猛反発につながります。
彼らがお藤つぶしのために考えた策は、江戸中の武家奉公人のトップに立つ男を味方につけること。
お藤はその男、黒羽の百蔵と偶然出会うのですが、彼を見て戸惑いをおぼえます。
なぜなら、かつて彼女を女衒から救い出してくれた男に酷似していたから……。
「痛快なお仕事小説!」と思って読んでいたら、ままならない恋を予感させる中盤。そして終盤に向かって、お藤の仕事と恋は複雑に絡まり合い、思いもよらない方向へ進んでいきます。
「思いもよらない方向へ」は書評の決まり文句みたいな言葉ですが、これは本当に想像を越えていて、驚いたというかなんというか。(これ以上書くとネタバレになるので自粛)
見事に決まったフィニッシュにあっぱれ!という気分でした。
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この本で西條奈加さんにハマった私が次に手に取った『まるまるの毬(いが)』は、仕事や生き方、恋についてまったく違うシチュエーションから考えさせられ、落涙必至の一冊。
これも時代小説ですが、和菓子職人の話でもあり、奥深い和菓子の魅力について語られているところも好感度大でした。
現代もののほうが好きという方には、ほのぼのミステリー『無花果の実のなるころに』シリーズがおすすめ。元芸者のおばあちゃんが探偵役で、孫の中学生の男の子とともに、神楽坂界隈の事件にかかわっていきます。
謎解きはもちろんですが、何気ない会話に人情味がこめられていて、あたたかい読後感が残るところも二重マル。
暑くもなく寒くもないこの季節は過ごしやすいようで、テンションが落ちやすいとも聞きます。
そんなとき、生き抜くことの尊さを感じさせる西條作品を読むと、自然と心が上向きになるような……。
楽しく読めて効き目を感じさせる。これぞエンタメ小説の醍醐味ではないでしょうか。