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体調不良始まる

佐々涼子

佐々涼子

 1968年生まれ。日本語教師を経て、ノンフィクション作家に。2012年『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』(集英社)で第10回集英社・開高健ノンフィクション賞を受賞。他に『駆け込み寺の男 ―玄秀盛―』(ハヤカワ文庫)、『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている』(早川書房)など

PHOTO©Hayakawa Publishing Corporation

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また、海の夢を見た。鉛色の海が迫ってくる。

 

 

目を開けると、リビングの天井が見え、煌々と明かりつけたままソファで寝ていたことに気づく。時計は三時を示している。見ると、テーブルの上には、夜食で食べたカップ麺の食べ残しがだらしなく置かれたままになっていた。

 

 

手探りで眼鏡を探すと、いつの間にか、からだの下に敷いていたらしく、フレームが無残にひしゃげている。それを見てため息をつくと、ゆがんだままの眼鏡をかけて、わたしはまた、パソコンの前に座った。

佐々さん_photo

 

『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている』の締め切りが近づいていたころ、わたしはもう、原稿のなかで被災地にいるのか、実際に東北にいるのか、よくわからなくなっていた。

 

 

舞台となった石巻に土地勘のないわたしは、ジグソーパズルのように、証言を組み立てて、被災地の光景を作っていく。ちょうどわたしのまわりに、スノードームを作っているような感じだ。桜が散るころになっても、わたしの周りにだけ、雪が降っていた。朝になるとyou tubeで津波のシーンを繰り返し見るそのたびに指先が冷たくなった。

 

 

運動をしたり、気晴らししたりすると、スノードームが消えてしまいそうで、証言してくれた人に申し訳なくて、パソコンの前から動けない。

 

 

今なら、他人からノンフィクションライターを勧められる理由がよくわかる。わたしはこの仕事が好きだった。自分のからだなんて気を遣うだけの余裕すらなかった。

 

 

そういえば、あのころはやけにからだが冷えた。熱くした風呂に入っても、腰のあたりが冷蔵庫から出したばかりの生肉を触ったみたいにとても冷たい。

 

 

〈病気になるなら婦人科だな〉
そう思ったのを覚えている。

 

 

休みたいときには、からだの方がちょうどいい具合に壊れてくれた。

前作『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』のときは、左耳の上に円形脱毛症ができた。頭髪の奥の方にあるので、頭頂部からの長い髪に隠れ、いつもは見えないのだが、指で掻きあげるとスマホサイズの巨大な地肌が現れる。

 

 

最初に髪があるべきところを触って、つるっとしていたときにはゾッとした。十円程度なら許そう。しかしiPhoneがぴったり入る大きさはただごとではなかった。

 

 

からだはいじらしい自己主張の仕方で、SOSを発信する。わたしは“ハゲ”を「ザビエル」と名付け、からだからのメッセージと受け取り、かわいがることにした。からだに負担をかけたことを、心から詫び、これからは大切にすると誓ったのだ。もう、つらい思いをさせないよ。そう言い聞かせながら、治れ、治れとステロイドを塗った。しかし、浮気性のダメ夫が浮気を繰り返すように、「ザビエル」が消えたころには性懲りもなく、ひどい暮らしに戻っている。

 

 

『紙つなげ!』を上梓し、しばらくして人間ドッグでD判定がついた。慌てて再検査すると貧血があるらしい。ヘモグロビン値がボーダーの半分しかなかった。医者が値を見てびっくりしている。

佐々さん_photo

 

「苦しくないですか?」
と、医師が尋ねる。

 

「別に。歩いていて二度ほど目の前が真っ暗になって、あ、一度は親切な人に病院に連れて行ってもらったことがありますが、別に生活に支障はありません」

 

「酸素がからだに回らず、いつも酸欠な状態です。高山で生活しているようなものですよ。駅からここまでよく歩いて来られましたね。帰りは気を付けて帰ってください。会社員だったら通勤困難で診断書を出すレベルです」

 

 

駅から診察室までは、ゆっくり歩いても一五分ぐらいだ。そんなに悪いのかと、わたしは驚いた。

 

 

今思えば、ここが長い不調の始まりだった。からだは「ギアチェンジ」のころだよと教えてくれていたのだ。

 

 

 

※文中の、佐々さんの著作をご紹介します。

 

・『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』…海外で死を迎えた遺体や遺骨を故国へ送り届ける、「国際霊柩送還」という仕事に迫った作品。

・『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている』…東日本大震災後、石巻の製紙工場が震災被害の絶望的状況を乗り越えて、復興を果たすまでの闘いを描く。

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