最終話 今日が最後の日
十二月に入り大寒波が到来、コロナ感染者数は過去最高を更新していた。東京都は一日の感染者数800人を超え、このままだと千の大台に登ることが懸念された。特別警報が出て、クリスマスや年末年始もこのまま、地味に家族三人で過ごすことになっていた。
家族がいて良かったと思うべきなのか。今年はうんざりするほど一緒にいた家族と、年末年始もこの家で、三食作って食べるのだ。部下を監視するような夫の視線を感じながら家事をするのは、本当につらいものがあった。
しかし、他の人生で花開く可能性のある年でもなくなったと、佐知は体感していた。心も体も現状維持できれば幸いで、下手すれば自分だって、ほんとうに「今日が最後の日」になってしまう可能性だってある。ならば、「今ここ」に集中して、日々を「最後の日」と思って生きることにしよう。
そうでもしなければ、体を壊す前に心が折れてしまいそうだった。最悪自死の選択をするより、目の前のことに一生懸命生きたほうがいい。
佐知は年末年始、家事とエンディングノート作りに専念しようと決めた。ノートには「語り継ぎたい美味しい味」という、自慢のレシピを書き込むコーナーがあるのだが、佐知には特別、得意料理というようなものはなかった。
ずっと仕事をしながらの家事だったので、朝は買って来たパンとスープ、昼は焼き魚定食、夜は夏ならばサラダとメインディッシュ、冬ならば鍋、というのが定番だったのだ。
楽しみにするのはいつも亜希の料理ばかりで、去年のクリスマスもお正月も亜希まかせだった。クリスマスディナーは一揃いクール宅急便で送ってくれたし、お節料理はお重を渡しておけば、きっちり詰めてくれた。佐知はそれを、年末の御挨拶がてら取りに行けば良かった。
結局私も、亜希に甘えていたんだな・・・。
佐知は反省とも後悔ともつかない溜め息を漏らした。
しかし亜希亡き今、自力でクリスマスディナーもお節料理も作らねばならなかった。お取り寄せしてもいいのだが、過去何度か色んなところのお取り寄せをして、値段の割に美味しくなかったことを考えると、この際作ってみてもいいんじゃないかと思い始めた。
鶏肉を一匹買って、お腹の中に栗やもち米や干し棗を詰めて、オーブンで焼けば美味しそう。いつもは亜希が作ってくれたアレを、自力で作ってみることにしよう。ケーキまでは無理だから、ブッシュドノエルは近所のケーキ屋で買うことにして・・・。
お節もお煮しめやなますなら作れるし、煮豆や栗きんとんは買ってくれば・・・いやいや、これを機会に作ってみよう。そしてそれを、あたかも自慢料理のように、写真を撮ってエンディングノートにはるのだ。
頭の片隅に、それを見てしらっとした顏をしている花梨が浮かんだが、死んだあとのことなど知らん、と佐知は開き直った。
確か・・・。
「亜希ちゃんの黒豆、なんでこんなに美味しいの? 売ってるのよりずっと美味しい。どうやって作るの?」
と聞いたとき亜希は、
「簡単だよ。黒豆は下味付けたお水に一晩漬けこんでから煮るの」
と言っていた。
「下味って?」
「お砂糖とお醤油。鉄卵入れてコトコト煮るんだよ」
鉄卵、鉄卵・・・佐知はアマゾンで検索し、ポチった。卵型をした南部鉄器だが、これを一緒に煮込むと、黒豆の色が良くなるんだよと、亜希から聞いたことがある。
しかし、自分で作ろうと思ったこともなかったから、味付けのレシピまでは分からなかった。佐知の母親も面倒な料理は嫌いで買って来る派だったので、聞いても分からないだろう。
「あ、叔母ちゃんなら・・・」
佐知は叔母の弘江に電話をした。お節料理なんかは母親直伝だろうから、きっと知っているはずだ。
「黒豆ねぇ・・・いつも適当に炊いてたから、レシピって言われても・・・だいたいもう、お父さん死んでからお節料理なんか作ってないしねぇ。あ、そうだ、康介が台所から亜希のノート見つけたって言ってたから、聞いてみれば?」
「分かった、康ちゃんに聞いてみる。ほら、亜希ちゃんいなくなっちゃったから、今年はお節料理、私が作ろうと思って。喪だけど、簡単なお節ぐらいね。お重に詰めてうちにも持ってくから、叔母ちゃんも一緒に食べて」
と思わず言ってしまい、さあ大変だと、急に気忙しくなった。康介にレシピを聞くからには、亜希んちの分もちっちゃいお重に詰めてあげねば・・・。みんなに食べさせるなら失敗はできないから、今から練習しないとだ。
康介に電話をすると、膨大なレシピの書かれた大学ノートを何冊も束にして郵送してきた。何十年にも及ぶ、亜希の人生がぎゅっと詰まったレシピ集だ。
「すごーい。亜希ちゃんの得意料理が全部載ってる・・・」
それは細かい綺麗な字で書かれていて、イラスト付きだった。何を目的に書かれたのか。嫁に自分の味を伝えるため? 佐知は、自分ならこんなお金にもならないこと決してしなかっただろうなぁと思った。
しかも、イラストも結構うまいのだ。亜希は何故、そのいろいろな才能を、仕事にしようと思わなかったのか。ただ家族のためだけに使って、命を燃やした亜希。滅私奉公、という言葉が脳裏をかすめた。
「あ、あったあった、お節料理のレシピ」
古いノートをめくって、黒豆の炊き方を見つけた。
「丹波の黒豆200gに対して水6カップ、お醤油小匙2、塩小さじ半分、重曹小匙半分、お砂糖100g、蜂蜜大匙3。それを鉄卵入れて一回煮立たせて火を止め、洗った豆を入れて一晩漬けこむ(7、8時間)。それを火にかけ、最初強火で、あと弱火で落し蓋をしてコトコト煮る。豆がひたひたになるように、水を足しながら煮るのがふっくら煮るコツ♡」
きんとんのレシピもあった。
「美味しい金時芋二、三本、栗甘露煮(シロップは捨てない)。お芋は蒸かし、皮を剥き、あえて裏ごししない。ザクザクに潰して、栗とシロップと混ぜる。お砂糖は入れない。素材そのものの味を楽しめるし、たくさん食べられるから♥」
レシピを読んでいると、まるで亜希がそこにいるようだった。
「亜希ちゃんもしかして、これ、私に委ねた?」
佐知は、オーブン料理も豆料理も苦手だった。余熱して温度を調節したり、乾物を水でふやかすという工程が、なんとも体質に合わない。手間と時間がかかるのは翻訳だけでじゅうぶん。それは仕事だから仕方がないとして、家事はとにかく、手早くぱっぱと、つまり適当に済ませたかった。
が、「今日が最後の日」と思い、五十四にして人生初めてのクリスマス料理と、ついでに正月料理にトライした。なんだかそれは、亜希が仕掛けているようにも感じた。私のぶんまで生きて、美味しいもの食べてと。
しかし佐知は、極寒のなか八百屋やスーパーに買い出しに行くのは嫌だったので、材料はすべてアマゾンでポチった。毎日段ボールを開け、次々と材料が揃うのは、アドベントカレンダーみたいで楽しかった。黒豆を洗い、ふやかす。お芋を洗い、蒸す。
亜希オリジナルの、サムゲタン風ローストチキンのレシピもあった。ヤンニンジャンという韓国調味料を入れた秘伝のタレに鶏一羽を丸一日漬け込み、ブイヨンで炊いたもち米を干し棗や栗と一緒に、鶏のおなかに詰めるのだ。それをオーブンでじっくりと焼き上げる。
手間のかかる料理だったが、そうやって無心で作業を続けているうちに、佐知の心は落ち着いて来た。状況は何も変わっていない。でも、心の持ちようで人は幸せになれるのだ。
そんな心の変化と同時に大寒波が過ぎ去り、クリスマスは春のようにあたたかかった。
(了)
「大人のリアリティ小説~mist~シーズン2」もお楽しみに。