第1話 東京タワー
この年になると、結婚している友人をまったく羨ましいとは思わないな・・・。
瞳はライトアップされた東京タワーを眺めながら思った。母親が残してくれたマンションは、古いけれど遠くに東京タワーが見えた。
母親はキャリアウーマンで、父親と別れてこのマンションを買った。下町の古家に父親を残し、瞳を連れて家を出たのだった。夫婦喧嘩ばかりしていた親を見て育ったので、瞳には結婚というものが、どうにもいいものと思えなかった。
母親も、自分が結婚に失敗したので、瞳にはいつも、
「結婚は人生の墓場だよ。あんたは結婚なんかしないで、自由に楽しく生きな」
と言っていた。
「男は裏切るけど、仕事は裏切らないから」
確かに、母親は中堅の不動産会社でトップセールスレディだった女だから、そう断言できる。働き過ぎか離婚のストレスか、癌で早く死んだのも、ある意味幸せだったと思う。
生きていたら高齢だしコロナが心配だ。行動が制限されるのも苦痛だろうし。
母親が死んで、もう十年になる。赤いスポーツカーを乗り回す派手な母だった。
あの車も、駐車場代がもったいないから売ってしまった。
瞳が住む港区のマンションは、駐車場代が月五万もして、都内でも小さいアパートなら家賃になるじゃん、と瞳は思った。
2LDKのマンションは、一人で住むには広すぎたが、保護猫がどんどん増え、うち一匹はエイズの猫だったから、ほかの猫からは隔離しておかねばならなかった。一部屋余分にあるのはありがたかったのだ。
その猫とは保護施設で目があった途端、恋に落ちた。もう何歳になるか分からないが、ゴツゴツした大柄の猫で、とても雌とは思えなかった。白猫かと思いきや、まるで人間の前髪パッツンのように、黒ぶちが入っている。
「お母さん、ヘンな猫ちゃんいるよー」
「本当だ。面白いね」
などとコメントされ、誰ももらい受けようとはしていなかった。
もう何年、この子はケージの中にいるのだろう・・・と思うと、瞳の胸は痛んだ。
しばらくじっと目を見つめ合った。細い目の下瞼が、うっすらピンクになっている。その眼差しはあたたかく、むしろ瞳を見守ってくれているようだった。
「この猫をください」
「えー、いいんですかぁ? エイズの猫ちゃんなので、多頭飼いされてる方は、隔離しなきゃなんないんですけど・・・」
調子のいいボランティアスタッフが言った。
「はい。部屋は余分にあります」
この子をここから救い出して、明るい部屋を与え、その中でだけは、自由に歩かせてあげたい。こんな狭いケージの中で年老いて、死んでくなんて可哀想だ。
瞳は使命感に燃えた。久しぶりの、熱い気持ちだった。
猫をもらい受ける場合、里親審査があり、家庭訪問もある。瞳は独身だったから、年齢はぎりぎりだった。猫も推定年齢六、七歳だったので、許可が下りた。
「うわぁ、こんな素敵な風景の部屋に住めるなんて、幸せですね。私が住みたいぐらい」
審査に来た施設のスタッフは言った。
その部屋は、生前、母親の部屋だった。遠くに白金の庭園美術館が見え、夜は夜景がきれいだ。マンションはぐるりとベランダに囲まれ、そこは、母親が残したグリーンでいっぱいだった。
「ほかの猫たちはここも歩かせてあげるんですけど、この子はこの部屋から出しません。可哀想だけど・・・」
瞳が言うと、スタッフは、
「いやぁ、これだけのスペースがあって、景色も素晴らしいので、この猫ちゃんにとっては天国ですよ」
と言った。
良かった、と、瞳は思った。
瞳はその猫に、大好きな韓流ドラマの役名をつけ、一等可愛がっているのだった。
「お顔が似てるんだよね、リジョンヒョク氏に」
親友の貴美子にラインで写真を送って言うと、
「そ、そうかな💦 しかもメスだし」
とネガティブな返信があった。
それでも、最近になってやっと「愛の不時着」を見てくれたから、話しが通じるようになった。
「どこまで見た?」
「まだ二話。家族がいるから、なかなか一人になれないの」
「スマホで見りゃいいじゃん」
「いや、やっぱりこれはテレビで・・・」
家族に揉まれ、好きなドラマも一人で観られない。貴美子の結婚生活を見ても、結婚なんてちっともいいものとは思えなかった。短大で知り合ったころの貴美子は、今の女優なら浜辺美波みたいに可愛かったのだ。
なのに、早々に職場結婚をしてしまったため、見る影ない。旦那は役場勤めで、安定はしているが安月給だ。
私が男だったら、もっといい生活させてあげたのにと、瞳はいつも思う。瞳には母親が残してくれたマンションが三つあり、一つは自分で住んでいるが、あとの二つを貸す毎月の家賃収入があった。
派遣で働いているのは暇つぶしと、世間体のためだった。それに、自分は独り者の派遣で働く不幸な女という立場でないと、大好きな貴美子も慰められなかった。
瞳は社交的な性格なので友達はたくさんいたが、中でも貴美子がお気に入りだった。
純粋、という言葉を絵に描いたような貴美子は、下町育ちで口の悪い、情は厚いが損得勘定ばかりしている瞳と、対極にあった。愚痴は言うものの、あんなに一生懸命好きでもない家事をやり、ボロボロになっている貴美子が可哀想だった。
洋服だって、たまにしか買わない。古いものを大切に着ているので、年齢以上に老けて見えた。何もそんな地味な色の組み合わせ、わざわざ着ることもないのに・・・といつも思う。それで本人はお洒落をしているつもりなのだから、瞳は今も昔も、驚くばかりなのだった。
それでも、貴美子は笑うと可愛い。その笑顔は、まるで天使みたいだった。
世の中に、こんな笑顔が可愛い五十歳がいること自体が、奇跡だった。
大好きな猫たちと同じ、掛け値なしの愛情を持つまなざしも、瞳の癒しだった。
「酒類の提供禁止じゃなかったら、どこか素敵なバーにでも連れってあげたいんだけどな・・・」
瞳は今宵もカクテルを作って、東京タワーの見える自分だけのバーで、一人飲んでいた。
リビングの窓辺にカウンターを設えているのだ。
バーカウンターには太った猫三匹が、揃いも揃って寝転んでいた。
窓にはその姿と自分が映っている。
「君の瞳に乾杯、なんちて」
瞳は自分に杯を合わせた。
◆小説「mist」のシーズン1・シーズン2は、こちらで読めます。