卵巣を取る、取らないで悩んでいると、友人から「ホメオパシー」を勧められたので、さっそく調べてみた。
ネットの情報によると、ヨーロッパ発祥の民間療法のひとつであるホメオパシーは、「病気や症状を起こしうる何か(成分、薬)」を使って、その病気や症状を治すことができる」という考え方に基づくものだそうで、具体的には極度に希釈した、その成分を投与することによって、病気の治癒をめざすものだそうだ。
その治療法のひとつである「レメディ」という丸薬(のようなもの)を、バングラディシュ旅行中に下痢をしたときに、日本人の女性にもらったことがあるのを思い出した。ちょうど米のような大きさと色をした半透明な粒で、なにが起きるか期待を込めて飲んでみたが、結論から言うと効かなかった。もっとも、そのときは正露丸も効かなかったので、一度きりでは何とも言えない。
わたしが皮肉るまでもなく、報道でも、ホメオパシーはプラセボ(偽薬)効果以上の効力は認められず、それどころか、有効な治療法を受ける機会を奪われるとして、批判の対象となっている。実際にも、子どもにきちんとした治療を受けさせないことによる具体的な被害が報告されているし、たちの悪い業者にひっかかると、治らない上に高額な治療費を請求されることもあるそうで、そうなると常軌を逸しているとしか言いようがない。
しかし、それでも、ホメオパシーを勧める友人は、わたしの周りにもいる。日々言説に裏付けを求められる同業者にさえ、ホメオパシー支持者は存在しているのだから不思議である。今までなら調べもしないで真っ先に選択肢から除外するところだが、今回、わたしはちょっと大人になった。
この「プラセボ効果にすぎない」とされる「気のせい」の効果が、人間には大事なときがあるのかもしれない。ジョー・マーチャント著、『病は気からを科学する』では、プラセボを投与しただけで、高山病における頭痛を軽減する効果があることが紹介されている。
腑に落ちるところがあるのは、母親に「ちちんぷいぷい」とおまじないをしてもらうだけで、実際に「痛みが飛んでいってしまう」という経験を、わたしだけでなく多くの人がしたことがあるからだろう。
風邪で医者に診てもらっただけで、薬も飲んでいないうちから治った気になって、ちょっと元気になることもある。心の働きによってもたらされるさまざまな効用は、今医療の世界でも再び注目されている。
ここで驚くのは、「プラセボですよ」と説明して投薬しても、ある一定の効果があるということだ。もっとも高山病の場合、プラセボでは血中酸素の濃度が改善するわけではないそうなので、気分がよくなったからといって妄信するのは危険。まさに「病も気から」「いわしの頭も信心から」である。
プラセボは、わたしの仕事でいえばパソコンのキーボードのようなものなのかもしれない。頭では整理しきれない文章が、キーボードを叩き始めるととたんに生まれてくることがある。
もちろん、キーボード自体はからっぽだし、プラセボもからっぽ。それでも、キーボードを使って記事を書いてきたことの嬉しさや、薬を飲んで気分がよくなったという経験をからだは覚えている。鍵はその行為によって生まれてくるからだと心の記憶なのだ。
ホルモンの乱れによる種々の不快症状は、新しい体内バランスに慣れるまでつきものだとするなら、その不快症状をなだめつつ、あきらめつつ、自己治癒力を信じて待つことを覚える必要があるのかもしれない。
病気ではなく老化であるのなら、どこまで「医療」に頼るのかも考えどころだ。今までからだを粗末に扱ってきたので、そんなまどろっこしいことを考えたこともなかったが、これから機嫌のいい大人になっていくために必要なことがあるかもしれない。そう考えてみると、すべての解決方法には、できる限りオープンでいたいと思う。
とはいえ、更年期のさまざまな不快症状と分けて考えなければならないのは、わたしは卵巣に脂肪などが溜まって腫れてしまう病気を持っているということだ。これは破裂する可能性があって、心の働きで消滅するとまでは信じられない。わたしは若い時にも大病をして、半身不随になるところを外科手術で救ってもらった。もし外科的な手術をしていなければ、いまごろわたしは立てなかったし、自力で排泄もできなかった。
自分が年を重ねるにつれて、友人もいい年になり、医療でなく別の道を選ぶ人も多くなってきたが、わたしは今回、自然療法ではなく医療にお世話になることにする。〝これがわたし〟だ。
誰でも通るプレ更年期に、こうやって様々な選択肢が用意されているとき、自分の信念や、考え方がわかって自分自身が何者かについての勉強になる。ほかの人に改めて話を聞くと、それもまたびっくりするほどさまざまで、その人の信心のバランスがどこらへんにあるかがわかる。
同じ日本に生まれて、同じ義務教育を受け、似たようなテレビ番組を見て育ってきたはずなのに、心のうちはバラエティに富んでいる。人はさまざまなグラデーションで何かを信じ、何かを信じていない。
祈祷、まじない、カルマ、インナーチャイルド、最新医療の情報マニア、現代医療万能主義、自分だけは病気にならないという根拠のない選民思想。これが、大病や、事件、事故、災害、親しい者の死などによってより強固なものになったり、一八〇度変わったりする。
人々の心の中にあるものを知ること。これが、リサーチの醍醐味であり、わたしの仕事の原点だ。
わたしの母は、原因も治療法もわからない難病にかかり、8年前には意思表示ができなくなった。そしてわたしたち家族は、突然、彼女の命を延命するかの選択を委ねられることになったのである。そのことが生命について、自分はどう考えているかを問い直すきっかけとなっている。
今のわたしの病気は命にかかわるようなものではないのだが、それはたまたまそうであったに過ぎす、次は延命に関わることかもしれないし、闘うか闘わないかの選択になるかもしれない。そのとき、医療をどう考えるかが、再び問われることになるだろう。
すべての選択は、その人らしさだ。毎日、わたしたちはさまざまな選択をして暮らしている。チキンかビーフか。オレンジジュースかアップルジュースか。黄色信号で止まるか、アクセルを踏むのか。結婚するのか、やめておくか。
「思い煩うな」と自己啓発書は言う。「判断をやめて大いなるものに委ねよ」と宗教者はささやく。でも、どうせなら思い悩める自由を存分に味わいたい。無数の選択の繰り返しと集積がわたしの個性であり人生なのだから。
選択肢が複数あることの幸福を想う。十分に情報にアクセスできることのありがたさを感じる。医療が受けられること、医師に意見が聞けること、代替医療を勧めてくれる友人がいることに感謝する。理性と合理性は父母の教育のおかげだ。そして今回、新たに学んだことは、考え方が自分とは異なっているとしても、他人の選択を尊重し理解すること、そして、健康でいる時には見えなかった、待合室にいる大勢の人たちを知ったことだ。
病人の一番の特権は謙虚になれることだ。病を得ることで、もっと賢くなれるはずだということを、わたしは信じていたいと思う。