私が初めて『砂漠』を読んだのは、13年前。大好きな伊坂幸太郎さんの新刊ということもありましたが、すぐさま購入した一番の理由は、表紙が異彩を放っていたから。
それはちょっと武骨な青年の顔で、何やらもの言いたげな表情で。
「きっと面白い話に違いない!」という確信がありました。
先日、ふとその表紙を確かめたくなって本棚を探したのですが、どうしても見つからない!(涙)
あきらめて書店に行ったら、実業之日本社の文庫として再登場していて、表紙も若者たちのシルエットに変わっていました。
単行本のヘンな顔の表紙もよかったんだけどな……ちょっと残念。
そんなこともあって『砂漠』を読み返したのですが、13年前の感想がよみがえると同時に、それとは違う思いも生まれてきて。
こういうところが再読の面白さなんでしょうね。
この小説をおおまかに説明すると、仙台の国立大学に通う学生たちとその周辺の人々が主な登場人物で、入学から大学卒業時までの話が描かれています。
語り手になっているのは北村という男子で、物事を俯瞰(ふかん)で見る冷静なタイプ。
彼に絡んでくるのが、お調子者だけど憎めない鳥井。
以前から鳥井と知り合いだったのが南という女子で、この同級生グループのもうひとりの女子が美人の東堂。
そして、忘れてならない存在が西嶋。彼は「単行本の表紙のモデルでは?」と私が思った人物で、世界を変えることを真剣に考えている、暑苦しいくらい熱い男です。
だから13年前の私は、「北村たちがまっすぐな西嶋にあきれながらも影響されていく話なんだろうな」と思いながら読んでいきました。
もちろん、伊坂さんらしいひねりを効かせた青春小説にもなるんだろう、と。
実際、物語はそういう雰囲気で進みました。ボウリング、合コン、麻雀など、大学生らしい日常のあれこれが、会話の妙もあって楽しげにつづられていく。謎めいた出来事やSFっぽい要素を絡ませながら。
ところが、夏の章で思いがけない出来事が起こります。
それは悪夢としか言いようのない、残酷な事件。そのために、登場人物のひとりがあまりにも大きなダメージを負うことになるのです。
「まさかこんなことになるなんて」と、私は大きなショックを受けました。その続きを読んで気を取り直したことが、記憶にあまり残らなかったほど。
ちなみに、ネタバレになるので詳しくは書けませんが、そのダメージが当人や周囲の人々にとってどんなものへと変化していくかが、謎めいた出来事の真相とともに、この小説のキモになっています。
ところで、なぜ私はそんなにもショックだったのか。
今考えれば、「人生は何が起きるかわからない。それって因果応報じゃない」と予言されたように感じたから、だと思います。
もしかしたら、当時の私の日常は比較的平穏続きだったから、“理不尽な何か”が起きることをものすごく怖がっていたのかもしれない。
でも、久しぶりに読み返してみたら、最初のときのようなショックはなかったのです。
もちろん、あらすじを知っていたから、という理由は大きいでしょう。
この13年の間に、起きるかどうかもわからない理不尽を恐れて残りの人生を過ごすなんて!という“もったいない精神”が出来たから、という気もします(笑)
その代わりに強く感じたのは、「登場人物たちはもうすぐ出ていく社会を“砂漠”と呼び、生き抜く術や奇跡を起こす方法を考えているけれど、それって全然青臭くないよ。永遠に大事なことだよ」ということでした。
そして、ある種の切なさ。
彼らが巻き起こす出来事はマジメな動機だったり、そうでもなかったり、どこかゆるい感じがしますが、それらは大学時代にしかできない類のもの。
だから、どこかに「こんな感じで過ごせるのは4年間だけ」という切なさが、彼らにも読み手にも共通認識としてある気がしたのです。
そうそう、私が切なくなった理由がもうひとつありました。それは“携帯”。
この小説の舞台は携帯が普及し始めた頃で、全員が持ってはいなかっただけに、誰かの居場所を知りたくてもすぐにはわからなかったりする。
もどかしいような、だからこそ面白いことが起きるような……もうこんな時代には戻れないんだな、としみじみ。たった13年前なのに。
伊坂ファンなら、他の作品とのつながりを察知するのも楽しいはず。
とにかくこの本は「いまさら青春小説なんて」と敬遠している方にこそ読んでほしい。
じゃっかん向こう見ずで、でも芯の部分はしっかりしている彼らに、改めて夢を見ることの素晴らしさを教えてもらえると思います!