気の置けない友人とのおしゃべりはいつも楽しいものですが、「男って」「女って」という言葉から始まる「男論」「女論」は、以前と比べると減ってきた気がします。
推測するに、年齢や経験を重ねるにつれ、「男女の違いより個人の違いのほうが大きい」と感じるようになったから?
「言ってもしょうがないかな。お互い変わらないんだし」みたいな気分もあるかもしれません。
でもでも。
角田光代さんと穂村弘さんが男と女についてとことん考えた『異性』を読むと、「性差というものはやっぱりこんなにもある!」と痛感するし、「この違いって何? どうやって埋めればいいの?」と考えてしまう。
そして「こんなにも面白くて永遠不滅のテーマを、今一度誰かと語り合いたい」という気持ちになるのです。
1967年生まれの角田さんは、『八日目の蝉』『紙の月』などの著書がある売れっ子作家。旺盛な執筆力でも知られますが、どの作品もレベルが高く、ourage世代のファンも多いのではないでしょうか。
一方、62年生まれの穂村さんは、現代短歌を代表する歌人のひとり。
「終バスにふたりは眠る紫の
<降りますランプ>に取り囲まれて」
『シンジケート』より
という歌をご存じの方もいらっしゃるかもしれません。
斬新な彼の作品は「ニューウェーブ短歌」とも言われますが、斬新なのはエッセイも同様。読むたびに「そんな見方、気がつかなかった!」という驚きがあり、クセになるような面白さがあります。
といったおふたりだから、「内面か外見か」「別れた人には不幸になってほしいか」「好きだから許せる」or「好きだけど許せない」などのテーマで、手紙をやりとりするように意見を交換した本書が面白いのは当然。
旧知の仲ではあっても「え、男って(穂村さんって)そんなこと考えていたの?」「え、女って(角田さんって)どうしてそんな反応をするの?」と驚きながらテーマを深めていく過程は私にとっても発見に満ちていて、文字通りページをめくる手が止まりませんでした。
「テーマを深めていく」と書きましたが、例えば「別れた人には不幸になってほしいか」というお題の場合。
「しあわせになってほしい」「別れたあとで相手がしあわせだったらくやしい」「どうでもいい」「不幸だと何となく後味が悪い」などの回答が、一般的には考えられそうです。
ちなみに、角田さんの女友だちの七割方は「しあわせになってほしい」、残りの三割は「どうでもいい」だったそうです。
でも角田さんの本音は、ふられた直後だけにしろ“「私がいなくなって以降、彼は生き生きしている」のがいや”。
彼女は自分が少数派であることにショックを受けながら、さらに踏み込んでこう自己分析します。
「……もし私が、こっぴどく自分を傷つけ離れていった恋人の幸福を、無病息災を、家内安全を、恋愛成就を、子孫繁栄を、商売繁盛を素直に願う、すこやかですがすがしい女だったら、小説など書いていないだろう」
つまり「私ってもしかして陰湿?」と落ち込みながらも、「だからこそ私」という気持ちが強い。そしてそんな自分のねちっこい性質(失礼!)、なぜと問い続ける性質が、作品の核につながっていることにも気づいている……。
さっぱり気質の「すこやかですがすがしい女」ではなかったからこそ、作家・角田光代が誕生したんだと思うと、読者としてはちょっと秘密をのぞいたような楽しさがありますよね。
対する穂村さんは、「別れた人には不幸になってほしいか」問題にどう答えたか。
「……もう相手のことはほとんど問題じゃない。単に別れた恋人の不幸を願う俺、というセルフイメージに耐えられないのだ」
セルフイメージ! ああ、わかる。私も「いい人でいたい」願望がある!
「……男性は過去の出来事や昔の思い出を自分の資産のように感じやすい、ということだ。若い頃の武勇伝を自慢げに語るとか、わが青春に悔いなしみたいなことを云いだすとか、」
「『一回好きになった人を、よほどのことがなければ嫌わない』のも、それが既に自分の資産目録に載っているからじゃないか。」
資産目録! なるほど、男ってそういう感覚だったのか。つまり、かつて自分が気に入った女性の価値は永遠ってことね!
話題はここから過去につきあった女性、つまり“資産目録に載っている女性”への現在の恋人の嫉妬を、穂村さんが「さかのぼり嫉妬」と名付けたことへ移っていき……。
さかのぼり嫉妬というのも「なるほど!」ですよね。穂村さんのセンスに感嘆するばかりです。
とまあ、取り上げるとキリがないくらい、「へえ~」「確かに」「そうだったのか」がいっぱいの本書。
いつも私は「面白い!」と思った箇所に付箋を貼りながら本を読むのですが、『異性』はあまりにも面白すぎ、付箋を貼りすぎて、こんな感じ↓になったのでした。
読後つくづく思ったのは、自分の中でモヤモヤしていた、あるいは自分でも気づかなかった同性・異性への感情が、このおふたりによってかなりコトバ化された、ということ。そしてそれがすごく快感だったということ。
読書は孤独な行為と思われがちですが、誰もが読みながら突っ込んだり、うなづいたりすることを考えれば、作者と対話するようなもの。特に『異性』みたいなエッセイの場合、なかなか会えない(会ったとしてもざっくばらには話せない)人たちと語り尽くした気分に。
そう考えると、やっぱり本って偉大ですよね!